助産師と自然療法そして「お手当て」 35 <整体の歴史と出産の医療化 2>

整体が妊娠・出産・育児の中で代替療法として残っている理由のひとつとして、「妊娠・出産は病気ではない」という認識が社会の中に根強く残っていることもあるのではないかと思います。


前回の記事で、野口晴哉氏が15歳で整体の療術団体を始めた1926(昭和元)年頃から戦後にかけて、出産の変遷をあわせて考えてみてみました。


「我が国の妊娠・分娩の危険性は?」(pdf注意)のグラフを見ても、1955(昭和30)年の妊産婦死亡は出生10万に対して178.8人とあります。
おそらく、身近で出産で亡くなったり障害を負ったお母さんや赤ちゃんの存在というのは、現在の私たちには想像ができないほどよくある話だったのではないかと思います。


それなのに、なぜ「妊娠・出産は病気ではない」という認識のほうが社会に根強くあるのでしょうか?


ひとつには、出産ぎりぎりまで働く必要があり、また産後もできるだけ早く働き始める必要がある労働力として見なされていたことがあるのではないかと思います。


休息も食事も不十分で、不衛生な中で妊娠・出産・産後を過ごしていた時代の近代産婆の保健指導の大変さ、そしてそれが戦後まで続いていた様子はこのあたりから書きました。


そしてもうひとつには、妊娠・出産に関する費用に対する社会的な制度の限界から、「妊娠・出産は病気ではない」と思うしかかなったということもあるのではないかと思います。


<健康保険制度と出産手当金>


現在の日本では、母体保護と出生した子供を守るために分娩に関するお金を心配しなくてすむような制度ができています。


多くの方は、健康保険の「出産育児一時金」あるいは「家族出産育児一時金」によって、43万円の給付を受けられるようになっています。
また経済的困窮などで健康保険に加入できなかった場合には、入院助産制度があり、お金がなくても医療機関で安全な出産ができるようになっています。


この出産手当金はいつ頃からできた制度なのでしょうか?


「女性学年報 第32号」(日本女性学研究会女性学年報編集委員会、2011年)の木村尚子氏の論文、「戦間期における産婆団体の自立と揺らぎー東京府産婆会内外の攻防を中心にー」の中に参考になる箇所がありました。


1922(大11)年に健康保険法が成立し、1927(昭和2)年から疾病、負傷、死亡そして分娩に対して給付が始ましました。


この分娩に対する給付に関し、日本医師会は1926(昭和元)年には政府と健康保険法に基づく診療契約を締結したのに対して、当時の産婆には医師会のような全国組織もないために医師と同じような契約の締結は認められなかったようです。


1927(昭和2)年に大日本産婆会が設立され、医師会に遅れること6年、東京府産婆会がこの健康保険の分娩給付の制度に参入していった様子が論文で書かれています。
この健康保険の分娩給付を受ける出産を請け負う場合には「保険産婆」として申請・登録が求められたようです。


ただ「日本の皆保険制度の変遷、成果と課題」によれば、「(健康保険)導入直後の日本の社会保険制度は労働者(ブルーカラー層)だけを対象としており、1927年当時、労働者は日本の全人口の3%にすぎなかった」とあります。


ですから、健康保険による出産手当の給付もまだまだごく一部の出産のみが対象であったことでしょう。


上記の文献では、健康保険の広がりについて以下のように説明しています。

 1922年から1945年の第1期には、陸軍が医療保険の適用拡大を推進した。これは1930年代に中国との戦争が激化する中で徴兵された若者の健康状態に関心があったからである。また、出産適齢期の女性にも適用拡大された。1934年には被用者保険の対象はフルタイム労働者を5人以上抱える事業所に拡大され、1939年にはホワイトカラーの勤労者とその不要家族にも拡大された。この間、多くの市町村で国民健康保険が施行された。図1からも見てとれるとおり、第一期のピークであった1943年には国民の7割が医療保険に加入し、政府の医療保険の拡大も順調に進んでいった。


富国強兵政策が若者や出産適齢期の女性の健康保険加入を促進させたということは皮肉なものだと感じますが、何はともあれ、徐々に健康保険による出産手当という制度が社会に根付いていきます。


ただし、健康保険の疾病・負傷という診療報酬とは別の出産手当金ですから、あくまでも「妊娠・出産は病気ではない」という建前が必要であるとも言えるのでしょう。


<健康保険と「出産の医療化」>


冒頭で紹介した国立成育医療センター、久保田隆彦先生の「我が国の妊娠・分娩の危険性は?」の4ページ目に「我が国の分娩場所の推移」というグラフがあります。


1955(昭和30)年には、助産所も含めた医療機関での分娩は20%にも満たないのですが、その後医療機関での出産は急増しわずか5年後の1960(昭和35)年には半数が医療機関で出産しています。


現在でもまだ「妊娠・出産は病気ではない」ということが聞かれるのに、当時人々はなぜ急に医療機関での出産を選択するようになったのでしょうか?


この背景には、この健康保険による出産手当の給付があるのではないでしょうか。
先に紹介したように、「1943年には国民の7割が医療保険に加入し」、そして1961(昭和36)年には国民皆保険制度で「ほぼ全員に保険制度が適用されることになった」とあります。


より安全に、助産所を含む医療機関での出産を望んでも経済的に無理であった人たちが、医療の中で出産できるようになった時代背景があるといえるでしょう。


健康保険制度が長い年月と多くの方々の苦労の積み重ねの結晶であると思うと同時に、出産を傷病とは別にしてしまったことで、「妊娠・出産は病気ではない」という建前を言い続けなくてはならなくなってしまったように私は思えてなりません。


もし、いえもちろん歴史に「もし」を言ってもしかたがないのですが、妊娠・出産はいつ何が起きるかわからない状態であり医療の中で管理したほうが良い、という認識をあの時代に社会に根付かせることができたら、今ほど、妊娠・出産に代替療法が入り込む余地を残さなくて済んだのではないかと思うのです。


ということで、医療としては認められなかった整体が妊娠・出産ではまだ活躍できる場が残された時代には、健康保険制度もひとつの鍵があるのかもしれません。



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