カンガルーケアを考える 9 <科学的なものと科学的でないもの>

<科学的なものと科学的でないもの>


「こうすればよい母親になれる」「こうすればよい子になる」。
そういう価値観や文化、あるいは社会の状況にも左右される部分は、「科学的根拠がある」といわれれても科学的に検討することがなじまない部分ではないかと思います。
そのあたりを今回は考えてみたいと思います。



1.カンガルーケアに関して現時点での「科学的根拠」とはなにか。


カンガルーケアの経緯がわかる文献をみつけました。ガイドラインワーキンググループのメンバーの方のようです。
「出生直後の子供の死亡減少に効果的な介入についての検討 ー国連ミレニアム開発目標(目標4:乳幼児死亡率の削減)を達成するためにー
永井周子氏  平成20年11月
http://www.fasid.or.jp/chosa/jyosei/list_pdf/18-2.pdf


40ページに及ぶ論文ですが、はじめにの部分をご紹介します。

 適正技術(Appropriate Technology)という語がある。国際保健の領域では、多くの患者、住民にとって必要な医療・ケアを、とりたてて高価な材料や高度な機器を使うことなく、簡便で安価に提供する技術をさす時にしばしば用いられる語である。
 例えば、下痢症対策における経口補水療法(Oral rehydration Therapy:ORT)は、その好例である。このORTの普及により世界中で下痢症で命を失う子供の数は劇的に減少した。きれいな水に溶いた経口補水塩(Oral rehydration Salt:ORS)を下痢症状のある子供に口から少しずつ飲ませるだけでという単純明快な治療法は、点滴による補液が主流であった下痢症の治療を一変させた。
 ORSは塩分と糖分から成る白い粉であるが、この粉の開発には多くの研究者の試行錯誤があったという。その組成は現在でも研究の対象である。


 初めて開発途上国でカンガルーケアに出会った時、この適正技術という語を思い出した。
 母親が直接肌のぬくもりで新生児を抱き続けるカンガルーケアは、高価な治療薬や高度で複雑な保育器を用いずとも、新生児医療・ケアの三大基本原則である「保温・母乳栄養・感染予防」を徹底していた。まさに、眼からうろこの光景であった。しかしその一方で、開発途上国における新生児領域の医療技術・ケアとして、カンガルーケアがどの程度の有効性、安全性を示すのかはあまり知られてなかった。

そのような適正技術が必要な国の状況について、以下のように説明があります。

2.世界中では毎日10,000人以上の新生児が、予防可能な疾患で死亡している
 前述の2005年のWHO年次報告によると、出生後わずか28日未満で死亡する新生児の数は、世界で毎年400万人にものぼるという。
 これら400万人の生まれて間もない生命の直接の死因は、感染症(敗血症、肺炎、破傷風、下痢等)が36%、仮死が23%であると推計されている。また、新生児死亡率の割合の高い国・地域ほど、破傷風、下痢など、予防可能な感染症による死亡割合が多いという。
 さらに、これらの新生児死亡の60-80%が、出生体重が2500g未満の低出生体重児であると推計されている。

日本の出生数が年に約100万人ですから、世界中ではその4倍にあたる赤ちゃん達が予防可能な疾患で亡くなっているということです。

3.我々は何人の新生児を救えるのか? 
 WHOによると、母となる女性が妊娠中・分娩中・産後に適切なケアと十分な栄養が与えられれば、4分の3の新生児死亡を防ぐことが可能であるという。しかし、資源(人・設備・資金・情報など)の限られている多くの開発途上国において、この「もしも」を実現することはなかなか容易ではない。


 ランセットの新生児特集の第2回「我々は何人の新生児を救えるのか?」では、システマティックレビューに、研究の規模、デザイン、質、設定の4項目を加味することで、現時点で有効性が示されている周産期の16の介入を紹介している。このレビューは、低・中所得の国で実現可能性の高い介入を選別することを目的に実施されたため、高価で高度技術を要する介入(例:人工呼吸器を用いた換気、サーファクタントの使用など)は含まれない。
 (中略)
 つまり、カンガルーケアは、出生後に実施可能な介入として、新生児の死亡・罹患率の減少に大きく貢献することが期待されているケアのひとつである

 日本の周産期の医療において、カンガルーケアは、出生直後の不安定な時期を乗り越えた低出生体重児のディベロップメンタルケアの一環として普及してきた。また、正期産で生まれた児に対しても、母乳保育の推進をねらった出生直後の母と子の早期接触のためのカンガルーケアとして広く知られている。
 しかし、世界各地ではそのどちらとも少しずつ異なる、新生児、特に低出生体重児の死亡・罹患率を減らすことを目的としたカンガルーケアが存在する。

つまりシステマティックレビューで科学的に分析された研究は、医療も不十分で保育器もない状況でいかに新生児死亡を少なくすることができるかという目的に対しては現時点では根拠があるとされたということです。
WHOの「カンガルーケアの手引き」でも、カンガルーケアをするのは母親だけではありません。常時、低出生体重児や早産児を保育器代わりに温めるためには父親や祖母が交替で「素肌と素肌を密着させて」温め続けています。
「母親との早期接触」や「早期からの授乳」で母乳栄養が成功しているのではなく、常時保温してあげているからおっぱいを吸うだけの生命力を維持できたということなのだと思います。


また、そうした低・中所得の国の多くでは、母親は出産直後から働かざるを得ない状況です。祖母に預けてミルクで育ててもらい、働く体力のある母親世代はすぐに出稼ぎに行かなければ生活さえもできない状況があります。
不衛生な水での調乳による感染、高価なミルクを適正な濃度で調乳しないことによる栄養障害は、元気に生まれた新生児を死へ追いやります。
まして保育器がなければ生き延びる力のない新生児は、そういう国では死ぬしかない運命だったことでしょう。


カンガルーケアによって、そういう赤ちゃんたちも元気に育つことが証明されました。


父親や祖母も赤ちゃんを交互に温めて母乳育児を目指すことの意味は、日本で広められている母乳育児推進の意味とは似て非なるものということです。
ステマティックレビューの結果を「科学的根拠に基づく」ものとして日本のガイドラインで利用するのであれば、お産で疲れた母親ではなくても父親や祖母のカンガルーケアでもよいということになってしまうでしょう。


もともと目的の異なる研究の結果を、日本のガイドラインは無理に科学的根拠にしているということではないでしょうか?
「科学的根拠に基づく」と書いてあってもそれは何かにお墨付きを与えているわけでもないことと、それぞれの調査研究の目的とは異なることに使われていないかどうかも慎重にみていく必要があるということだと思います。


次に<科学的なものと科学的でないもの>の続きで、カンガルーケアの賛否それぞれの論拠について考えてみようと思います。



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