これまでの記事で、「女性学年報」の木村尚子氏の論文をたびたび紹介しました。
その木村尚子氏が本を出されたことを琴子ちゃんのお母さんがブログで紹介してくださったので、早速購入して今読んでいるところです。
「出産と生殖をめぐる攻防 産婆・助産婦団体と産科医の100年」
(木村尚子氏、大月書店、2013年2月20日)
「女性学年報」は引用にも許可が必要なため詳細を紹介できなかったのですが、これからは引用できるので助かります。
以前、「助産院は安全?」の中で「助産師の中には『助産医』になることを求めている人たちがいる」という話題が出たことがありました。
最初、その話を聞いた時には「さすがにそこまで求めている人はいないのでは」と思ったのですが、後から私があまりにも助産師の世界を知らないことに気づかされたのでした。
<明治の産婆の動き>
そのひとつが、木村尚子氏の論文の中で「産師法」という言葉を知ったことでした。
1899(明治32)年に制定された産婆規則を産婆法へ、そしてさらに産師法、助産師法へ認めさせようとする動きが木村氏の論文の中に書かれていました。
助産師法といっても、現在の保健師・助産師・看護師に使われる「師」ではなく、医師・薬剤師にならぶ資格を認めさせようという動きでした。
新たに出版された本では第3章に「産婆業務独立の試みをめぐってー 1910−1930年代」の中で書かれていますが、その前文には以下のようにあります。
第2章では、明治期の産婆教育を経て活躍するようになった指導的な産婆たちが、天皇家や著名人らの権威に与し、また「母性」や「異常」をも自らの道具とすることで、産婆の職を権威づけようとしたことを検討した。本章では、これらの野心の背景にあった産婆の意識と、彼女らが行った業権保全の運動の経緯について見ていく。
産婆規則が制定されてわずか10年で、産婆は無資格者が助産業務を行うことへの批判を強めていく様子が描かれています。
産婆規則制定からおよそ10年後には、これが現況には適さないとして改正を求める産婆の意見が出される。産婆規則では、産婆が普及するまでの暫定的な措置として、従来から営業する無免許の者にいわば仮免許が認められていたのだが、これに対する批判である。
無免許の者が許されているのは産婆規則19条の条文に基づくもので、これは本来、産婆がいない地域での「当分/内」の対応策であった。
にもかかわらず、「近隣の無免許助産者が『公々然』と助産業務を行うことを告発するかたちで警察署長と地方長官にうかがいをたてる」産婆がいたことが書かれています。
このように無資格者の助産業務を禁止しようと積極的に働きかける産婆がいる一方、賛同しない産婆もいたようです。
翌1912年にも梅田(*)はこの問題を取りあげ、産婆の共鳴がないことを「意気地のなき同業者」と歯痒がり、「産婆規則の改正を促すは、妾等の活動如何にあり」と再び産婆の賛同を訴える。
(*)大阪の緒方助産婦養成所を卒業し広島で開業したという産婆・梅田キクヨ氏のこと
ああ、まるで最近の状況かと思うような話ばかりです。
<幻の「産師法」「助産師法」案>
1930(昭和5)年代には、「産師法」案が提出されます。
ここではまず、産婆が業務のひとつとしてあげた会陰切開に焦点をあてる。この主張は、産婆から要望があったにもかかわらず、その後、運動の中での要求項目とはならなかったようである。それだけに、医師と産婆の境界区分を象徴する問題であったと考えられる。
また産師法では「正常産の場合の医師による助産行為の禁止を求め、産婆による業務の独占」を求めていたようですが、結局、認められることもなく終わったようです。
1933(昭和8)年、別の「助産師法」案が提出されています。
この助産師法案の最大の特徴は、「特別ノ講習ヲ受ケ地方長官ノ認定ヲ受ケタル者ハ救急ノ手当テトシテ助産ニ必要ナル皮下注射(強心剤、止血剤、陣痛促進ノ注射)、会陰縫合術、用手胎盤剥離術及新生児蘇生剤注射ヲ施スコトヲ得」とする第十一条である。
列挙された「手当」は、明治期に日本の産科医による産婆教育が始まって以来、医師によってのみ実施されうる行為として位置づけられ、1899年に制定された産婆規則でも産婆には禁止されているものである。
ああ、どこかで見たような気がするのは「2011年に出された要望書」ですね。
助産って、本当に何でしょうか?
助産は誰のためなのでしょうか。