周囲の状況を見ながら行動できるのは、クールだと感じます。
「空気を読む」とも違った、「行間を読む」動きといったニュアンスです、私には。
「周囲の状況を見ながら行動する」ためには、多様な動きや多様な状況があるということを理解してこそできる行動かもしれません。
<夜勤のある職種が増えた>
夜勤明けで電車に乗ると、いつの間にか熟睡し始めてしまいます。
乗り過ごさないようにヒヤヒヤしています。
最近のように各社相互乗り入れで1路線の長距離化が進むと、居眠りをしている間に、下手をすると3つぐらいの都県を通過する可能性があります。
まだ私が30代初めの若い頃でした。
いつも通り、夜勤明けで電車に乗ったあといつの間にか眠ってしまいました。
はっと目をさますと、目の前に立った60代か70代の女性が私をにらみつけていました。
寝ぼけた頭で何がなんだかわからないまま、「あ、ごめんなさい。どうぞ」といって席を譲りました。
あとで落ち着いてみると、車内にはまだ空席もありました。
でも、きっとその人は「朝から電車内で熟睡して、高齢者に気づきもしない若い女性」を許せなかったのかもしれません。
その頃はまだ24時間営業の職種は少ない時代でした。
女性の夜勤というと看護職とごく一部の職種でしたから、朝っぱらから電車で寝ているのは「遊んでいた」と思われたのかもしれません。
当時に比べると、夜間営業の職種が増えたと思います。
電車の中で、私と同じように熟睡している若い人たちが増えました。
「あ、夜勤をしていたのだろうな」「ホント、疲れるよね」と、まるで同士のような気持ちになります。
若くても日中でも、車内で熟睡するほど時間に関係なく働く仕事をする人たちが増えてきたのだろうと思います。
<車内で物を食べる>
以前は、電車、特に近距離の電車内で物を食べたり飲んだりする行為は私自身はしませんでした。
またそういう人を見ると「何も電車の中で・・・」「数分もすれば駅に着くのだし」と、やや批判的に受け止めていました。
ところが、両親の入院・介護などがいっきに重なった時、私も電車の中でしか食べる時間がないことがありました。
仕事が終わって職場を飛び出すように両親の入院先に面会に行き、洗濯や用事を済ませて帰宅すると、泥沼に沈み込んだように眠るだけという毎日でした。
とにかく食べられるときに何かを食べなければ・・・と、電車の中でパンやお菓子を食べました。
ああ、人にはいろいろ事情があるのだから、これからは批判的に見るのはやめよう。
あの電車内で食べている人も、なにか事情があるのかもしれない。
・・・と思うようになりました。
でもさすがに、山手線の新宿駅のホームでコンビニのお弁当を立って食べている若い女性を見たときは仰天しましたが。
いえ、それでも「何か事情があるかもしれない」ですからね。
<見て見ぬふりをする>
「席を譲る」という行動も、案外難しいものです。
「高齢者」といっても、見た目も気持ちもお若い方がたくさんいます。
微妙に「高齢者とは思われたくない」世代の方もいます。
席を譲っても「・・・(私はまだ席を譲られるほどではない)」と、やんわり迷惑そうなこともあります。
あるいは「ひと駅だから立っているほうが都合がよい」など、いろいろな理由で立つことを選んでいる方もいます。
途中から乗車してきた人がそのやりとりを知らないと、「高齢者を立たせたままにして」と見えてしまうかもしれませんが。
通勤していると「この場合譲るかどうか」というのも、けっこうみな「間合い」のようなものがあるように感じます。
決して無関心ではなく、この人は譲ったほうがよいかどうかけっこう観察しているようなところがあるのです。
混雑した車内には、いろいろな考え方やいろいろな状況や事情の人がいるので、そっと見て見ぬふりをしながら見ている。
それもクールだと思うことがあります。
<おまけ>
目の前に70代ぐらいの女性が立ったので、席を譲ろうと声をかけました。
その方は、「いいのよ。私は年金暮らしで、今日は遊んできたから大丈夫。疲れている人が座ってね」とさわやかに、断られました。
断り方もまたクールな方がいらっしゃるものです。
年金生活かどうかはともかく、私もとっさに「疲れている人がどうぞ」といえるようになりたいものだと思いました。
「行間を読む」まとめはこちら。