混雑している人混みや電車の中で、お互いに迷惑にならないようにするために日頃マナーやルールという言葉を意識します。
ただ、案外このマナーやルールというものは「自分はそれは許せない」「自分はそうされるのは嫌」という感情の部分から生み出されていることが多いのかもしれません。
「全然、自分は気にならない」という意見がでてくるように。
3〜4年前ぐらいでしょうか。
電車の座席に座ると横の人の肘がわき腹に当たることが急に増えた時期がありました。
少しあたるだけなのですが、けっこう不快です。
以前はそんなことはなかったのに何故だろうとみているうちに、座るとまずバッグから何かとりだそうとする行動をする人が増えたように感じました。
そして携帯電話ではなく、スマートフォンを操作する人の方が、肘を張り出すようにしていることが多いことに気づきました。
私もスマートフォンに変えた時期だったので、実際に使ってみると両手で操作するので携帯電話以上に肘が隣の人にあたりそうになるのがわかりました。
最近、だいぶ座席で肘で小突かれることが減ったように感じます。
皆、もしかすると自分もされて不快だということが浸透したのかもしれません。
いぇ、個人的な体験談で根拠はない話なのですが・・・。
あらたに出現した「迷惑な状況」と思うことも、もう少し長い目で見ると、意外にあの一見無秩序な混雑や雑踏が自然とその変化を察知し適応していく過程があるような気がします。
<電車内への荷物持込み>
1980年代初め、スキーへ行く若者が増えました。
当時はまだ宅急便がなくて、スキーと大きなバッグを担いで山手線に乗り込み、それから新潟や長野方面へ滑りに行きました。ユーミンの歌を聴きながら。
今思い出すと、よくまぁあんな荷物を担いで行ったものだと思いますし、車内でも迷惑だったことでしょう。
大きな荷物といえば、キャリーカートが増え始めたのはいつ頃でしたか。
後ろにガラガラと引っ張って歩く人が急増した時には、あの混雑の中で人ひとり分の間隔を空けて歩くのに慣れるまで、なんとなくピリピリした雰囲気があったような気がします。
でもいつの間にか、あの雑踏の集団行動は適応していったようで、今はほとんど違和感もありません。
キャリーカートを持って歩く人との間合いも自然と身について、以前のようにイライラすることもなくなりました。
マナーやルールか、迷惑か迷惑だと感じる冷たい社会かという議論になりやすいものがベビーカーかもしれません。
十数年前まではまだ電車内にベビーカーを畳んで持ち込むことさえ、よく思われない時代でした。
その後、畳まなくても電車に乗せられるようになりました。
以前は畳めるぐらいの軽量・小型のベビーカーが主流だったのが、最近では「軽自動車」に対して「戦車」かと思うほど大型化して重量感のあるベビーカーが多くなりました。
さすがに定員乗車率が180%以上ぐらいになると、立っているだけでも自分の身の安全を守ることも大変な状況ですから、そこに赤ちゃんが乗ること、そして急停止すればそのベビーカー自体が凶器にもなることを考えれば緊張感を与える存在になります。
それでも定員乗車率100%から150%ぐらいなら、ベビーカーが入るスペースを譲り合っている光景はよくみかけるようになりました。
ベビーカーに関する議論を見ると、私はよくあの限られたスペースで、新たな状況を受け入れ変化していくものだと、別の感想を持つのです。
あの一見冷たい雑踏もけっこうクールだなぁ、と。
<東京の「混雑」の変化>
2009(平成21)年に(社)日本鉄道車輌工業会が作成した資料の「第14章 鉄道分野における標準化と企画」がネット上で公開されていて、その中の「1.社会インフラとしての鉄道の役割・旅客輸送」(p.4)に、東京の「混雑区間における混雑率・輸送力・輸送人員の推移」という表があります。
1975(昭和50)年と比べて、約40年後の2006(平成18)年はどれくらい変化したかを表しています。
混雑率 220 → 170
輸送力 100 → 163
輸送人員 100 → 126
ちなみに東京都の人口統計をみると。1975年は1160万人に対し2006年には1259万人と増加しています。
通勤圏内の近隣県も同様に人口は増加していることでしょうから鉄道の利用者数(この場合の輸送人員)も増加しているのでしょうが、反対に混雑率は減少しています。
昭和40年〜50年代、駅員さんに電車内に押し込まれている通勤風景のビデオを時々目にします。
当時の利用者数に比べても増えているのに、その人の流れを吸収して滞りなく移動させている鉄道機関というのはすごいものだと改めて思います。
中央線や小田急線のような地下化や複々線への混雑緩和工事、その他私達があまり気にとめていない部分の改善などで、少しでも混雑が少なくなるような努力がされているのでしょう。
その結果、あの戦車のようなベビーカーを受け入れる許容力もできたのだと思います。
<変化に対応しているクールな社会>
自分が社会的弱者の立場になって初めて気づくことがあると思います。
それを声にすることは、また変化への一歩となることでしょう。
そして雑踏という一見無秩序な集団もまた、そうした社会の新たな変化を受け入れて対応していくと思います。
そのような社会の変化に気づけたら、それもクールだと思うのです。
不満に感じたことも別の視点で見れば、案外、その社会が無言のうちに作った秩序によって自分も守られていたことも見えてくるかもしれません。
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