行間を読む 48 <救急医療は「医の原点」>

先日来、「善きサマリア人」とは何か考えながら検索しているうちに、「救急医療の現状と課題」という投稿文を見つけました。


「日本の救急医療の歴史」(p.104)では、1970年代からの救急医療の変遷が書かれています。


2000年代に「たらい回し」という言葉で医療批判があった時に、「たらい回しではなく受け入れ不能という表現を使って欲しい」という声が医療関係者からたくさん聞かれました。
その寄稿文の中に、1970年代の様子が書かれています。

1970年には交通事故死亡者が年間17000人とピークに達した(図1)。当時、外傷患者に対しては、頭部外傷には脳外科、骨折には整形外科というように、各専門科がそれぞれの領域の診療をおこなっていたが、重症多発外傷となると受け入れる病院や診療科が非常に限られていたため、「たらい回し」と呼ばれる状況が発生し社会問題となった。事故、災害等による患者の搬送が消防機関の業務として義務づけられたのは昭和38年の消防法の改正によってであるが、当時は実際に救急車が次々と病院を巡って受け入れ先を探すような状況であった


携帯電話もない時代ですから、瀕死の患者さんを乗せて救急車が病院を探しまわった時代があるのですね。
それもそんなに昔の話ではなく、私が小学生の頃の話です。


昨日の記事で書いた1980年代後半は、「初期、二次、三次救急医療体制」ができた時代です。

1980年代には救命救急センターが全国に整備され、初期ー二次救急体制(図2)が確率された。なお、初期救急医療機関は外来診療によって救急患者の対応を行い、二次救急医療機関は入院治療を必要とする重症の救急患者の医療を行い、三次救急医療機関は二次救急医療機関で対応できない重篤な救急患者に対して高度な医療を総合的に提供するものであり、救命救急センターが担当する。


ただ、実際には夜間や休日の外来診療だけをする診療所はなくて、外来対応レベルの軽症から入院も必要な状態までの患者さんが総合病院に集中したのが1990年代だったのだと思います。


その背景には、「救急医療の現状」(p.115)にあるように交通事故などの外傷は減少した反面、高齢者の循環器疾患と脳血管疾患が増えたことなどがあるのは、実感としてその変化を感じてきました。
一見、まだ症状が軽いからと帰宅させた後に急変する患者さんもいるので、病院側も「できるだけ慎重に、夜間でもできる限りの検査で」対応していましたし、患者さんや家族も「できるだけ大きい病院で診てもらいたい」という気持ちが強くなった時代でした。


また、p116に書かれているように夜間受診する疾患の背景も複雑になりました。

救急隊の病院への搬送連絡に20回以上を要した事案をみると、飲酒(24%)、薬物中毒(19%)、複数診療科(10%)、吐下血(7%)、精神科疾患(6%)などの要因がみられる(平成19年、大阪市)。


服薬やリストカットなどの自殺未遂、DVによる外傷、拒食・過食による嘔吐あるいは精神不安定など、夜間に救命救急だけでなく精神的な治療や対応を必要とする受診が増えたことに驚かされたのも1990年代でした。


また、「呼吸が苦しい」と夜間救急搬送される方の中には、点滴をして話を聞いて友人の迎えがくると安心して帰宅するという「いつものあの患者さん」もいました。


家族が高齢者を入院させるつもりで、入院の支度までして救急車を要請することもありました。診察しても入院を要するような症状はないのですが、「なぜ入院させないか」とご家族から詰め寄られたこともあります。


何かと「救急医療」が変化したことを痛感したのが1990年代です。

今後は、米国において問題となっているように、高齢者や貧困者などの増加に伴って救急医療に求められる社会のセーフティネットとしての機能が大きくなることが予想されるが、本来医療以外の領域(福祉、介護など)が果たすべき役割との調整が必要であろう

まさにその通りだと思いました。


「救急医療の特色」(p.114)は、もやもやと考えていたことを整理するのに役立ちました。

・「医の原点」
・社会のセーフティネットの一つ
・対象となる傷病・患者が多用⇒専門性?
・社会・地域のニーズに応える
・ユニバーサルモデルがない
 (時代、地位域、施設によって要望が異なる)
・自己完結的でない
 ⇒診療:各専門科集団、他職種との連携
 ⇒教育:各領域での幅広い研修が必要


「ユニバーサルモデルがない」
まさにそのとおりだなあと。


困った時に、適切な医療を、適切なタイミングで受けることができるようにするには、「たらい回し(応需困難事例)」を救急病院と救急隊だけの問題とせずに、すべての医療関係者、救急隊、行政そして利用する市民がそれぞれの立場から取り組み、歩み寄ることが必要である。


「善きサマリア人」をどう考えるかも含めて、ひとりひとりが助ける側にも助けられる側のどちらの当事者にもなるのですから。





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