記憶についてのあれこれ 37  <「満足のいく」医療とは>

30年あまり医療機関での仕事をしてきて、たくさんの場面が思い浮かびます。
手足も震えるような恐怖感と緊張感の中で救命できたことや、生死をさまよった方が元気に日常生活に戻られた時の喜びや、反対に無念さで思い出すのも辛い場面などあります。


その中で、「こういう医療現場で働ける事はなんて幸せなんだろう」ととても満足感をもって思い出す場面があります。


1980年代後半、まだ助産師になる前に看護師として一時働いていた民間病院の内科病棟でのことでした。


ある日、全身の皮膚疾患が悪化して自宅で動けなくなっている50代の男性が救急搬送されてきました。
何が原因で体を動かせなくなってしまったのか理由は忘れてしまいましたが、全身の皮膚がびらんし、浸出液と排泄物にまみれた状態でいたところを近所の人の通報で搬送されてきたのでした。


受け入れたのは、当時30代後半の皮膚科の女医さんでした。
すごい状態の人が入院してくる事を申し訳なさそうにスタッフに伝えましたが、誰も反対する人はいませんでした。
近隣の別の病院で重傷者を受け入れる余裕がなかったために断られたということを聞いて、「それなら私たちが受けましょう!」ともっと闘志を燃やしたのでした。


来院した時の状況は、それはそれは悲惨な状況でした。
全身ドロドロに浸出液と汚物で汚れていますし、悪臭もひどいものでした。
搬送して来た救急車もしばらくはにおいが残って大変だろうと思うほどです。


女医さんとスタッフ総出で、エプロンと長靴を履いて、その男性の全身を洗う事から始めました。
なんとかきれいになるまで1時間ほどかかったと思います。
使ったあとの浴室の清掃・消毒にも時間がかかりました。
その日は皆、家に帰ってもにおいが取れなかったようです。


全身をきれいにしたあと医師が診察し、軟膏療法の方針が決まりました。
毎日1回は全身を洗い、一日に2回、全身に決められた軟膏処置をしていきます。
軟膏処置だけでも、スタッフ二人がかりで30分以上はつきっきりになりました。


皮膚が再生されて、軟膏処置が1日2回から1回になるまでに1ヶ月ぐらいはかかったでしょうか。
そして寝たきりだった男性も病院食で栄養がとれ、リハビリを受ける事で少しずつ体を動かせるようになりました。


車いすで動けるようになり最後は杖で自分で歩けるようになって、数ヶ月後に退院されたのでした。
「二度とこんなに悪化させないように、ちゃんと生活するのよ」とみんなに言われながら。


この方の入院治療費がどれくらいだったのか、誰も気にする必要はありませんでした。
入院食の自己負担もない時代でしたし、この男性がお金がないことは皆知っていましたから、全身を洗ったり軟膏処置に必要な物品も病棟にあるものを使うことで本人の経済的負担がないように、むしろ看護スタッフの方が配慮していました。
そしてソーシャルワーカーさんや事務の方々が、費用の面では尽力してくださっていたのだろうと思います。


入院期間を気にする必要もなく、「自宅に戻って自分で生活できる」退院可能な状況を医師や看護スタッフの裁量で判断できる時代でした。


その病院で働く前にいた東南アジアの国の医療や看護を思い出しながら、こうして病院内でみんなで協力してその人に必要な医療を目指して行けることにとても満足感を感じていたのでした。


同じ頃に「医療にもサービス・接遇を」という考え方が出始めていたことを知り、やはり見ている方向が違うのだと私には思えるのです。





「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら