水のあれこれ 23 <抵抗を生み出すもの>

葛西水族園の大水槽の前でマグロのように悠々と泳ぎたいと思ったことをこちらの記事に書きましたが、あの巨大なマグロが近づいてきてもサッと機敏に向きをかえるイワシなどの集団の華麗で抵抗のない泳ぎにも感動します。


私なんて隣りに激しくキックしながら泳ぐ人がいるとそれだけで波を受けて泳ぎがバラバラになりますし、そういう人が近づいただけで泳ぎ方がぎこちなくなってしまいます。


「鳥肌がたつ」で野口智博氏の本から紹介したように、魚には人間にはない圧力抵抗と造波抵抗に対応できる能力があるのでしょうね。
ああ、魚になって泳いでみたい!


でも魚には、「あ、大きい魚がきた」「食べられるかもしれない」といった精神的な動揺はあるのでしょうか?
そして魚にはそういう精神的な抵抗が泳ぎに影響をすることはないのでしょうか。
ちょっと魚に変身して体験してみたいものです。


まあ、精神とは何かというところから答えはないのですが。


なんでこんなことを書いているかというと、先日の世界水泳の録画を観ながら観客側というよりは放送する側の応援の仕方もまた、選手の皆さんの泳ぎへ圧力抵抗になってしまう可能性もあるのではないかと感じたことです。


<親を出すのは禁じ手ではないか>


その疑問を感じたのが、あの瀬戸大也選手が見事な泳ぎを再現した直後のインタビューエリアの映像でした。


400m個人メドレーで泳ぎきったあとの瀬戸選手は、電光掲示板をチラッと確認したあと、もう全身全霊を出し尽くした表情をしていました。よく優勝した選手が水を叩いて喜びを表したり、周囲の選手と健闘を讃えあったりするのですが、もうそういう力もないぐらい虚脱していました。


本当にそれぐらい、今回の世界水泳は瀬戸選手にとってつらいものだったのでしょう。


インタビューエリアに移動して来た時には、できるだけ疲れを見せないようにしっかり歩いて来て、きちんとインタビューに答えていたのはバルセロナ大会と同じで大人だなあと思いました。


十分に瀬戸選手の思いや優勝の感動が伝わる内容で終わらずに、テレビ局は母親との会話を準備していました。
「日本で応援しているお母さんとつながっています」と。
その時の瀬戸選手が「エッ?」と少し困惑したような表情になったと感じました。


<競泳会場での変化>


10年以上前に競泳会場で観戦をするようになった頃、テレビ朝日世界水泳の放送や北島選手の影響でぼちぼち観客が増えて来ていたのかもしれませんが、日本選手権でも空席がけっこうありました。


最近は平日でも観客が増えて来ているのですが、よくよく周囲を観察していると、選手の家族が増えているような印象です。
特に選手のお母さんとその友人というグループが、だいたい近くにいます。
自分のこどもが出場する時に大きな声援をしていますし、レースが終わるとその選手が来てお母さんとその友人に挨拶をしていたりする光景をよくみかけるようになりました。


水泳を続けるのにはそれなりに経済的な支援も必要ですし、体力を作るための食事など、御家族の力なしには上達できない部分があるのかもしれません。


日本選手権の優勝インタビューなどでも、親や周囲の人のサポートへの感謝を伝える選手が次第に増えてきました。


<選手自身はどうなのだろう?>


最近は大学の入学式や中には社会人になっての入社式にまで親が出席するというニュースには驚いてしまうぐらい、私とは世代間の感じ方の違いもあるのかもしれません。


私自身は、高校生ぐらいでもう入学式や卒業式には「気恥ずかしいから来なくていい」と思うぐらい、親とは違う人生を歩み始めていることと大人に近づいていることの誇りのようなものを感じていました。


もしかすると、今は「親に自分の姿を見せること」が大人に近づいた誇りと感じる人もいるのかもしれません。
それで、晴れ舞台に親のインタビューを組み込む事は喜んでもらえるシーンという、テレビ局側の目算のようなものがあるのでしょうか。


でも瀬戸選手を始め、高校生ぐらいから世界大会の経験を積んでいる選手にとっては、もう立派に自分の目標と自分の世界があるのではないかと思います。
20歳前後でそうした経験を積んでいる人には、それなりの敬意をもったインタビューというものがあるのではないかとあの場面から感じました。


親を引き出してお茶の間の感動を・・・というのは、こういう数少ない選手の貴重な経験を下世話な話にしてしまっているようでもったいないなと思います。


世界の選手と泳ぐためには、親からさえ精神的に自由になることも水の抵抗を少なくするのではないかと思いました。




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