帝王切開について考える 27 <「お産を家族にかえす」?>

前回の記事の「産み方は生き方?」で、「助産雑誌」2014年2月号(医学書院)の「帝王切開のお産をケアしよう」という特集の中に「『お産を家族にかえす』当院での取り組み」という記事があることを紹介しました。
サブタイトルに「帝王切開尊い出産の1つ」とあります。(強調は引用者による)


記事は以下の文章で始まっています。

帝王切開であっても、経膣分娩であっても、母親が大切な命を生み出す偉大な出産。それはとても喜ばしく素晴らしい時。
助産師自身が分娩方法にこだわっていなか、いま一度考えてみませんか? (強調は引用者による)


強調した、こういう問いかけが必要な現実があることはとてもよくわかります。


<「帝王切開でイヤだったこと」より>


たとえば同じ特集の中に「帝王切開で産んだ女性の気持ちと医療者に望むこと」という記事があり、「帝王切開でイヤだったこと」の「医療者からの言葉」でもこんなことが書かれています。


 産前に「経膣分娩がしたい」と思っていた母親の気持ちを知っている医療者から、生まれた赤ちゃんを見て「残念だったわね」と言われたという話をよく耳にします。「今度はちゃんと産めるといいね」と言われた女性も多くいます。
 産み方に関して告げた言葉であったにしても、「残念」「今度はちゃんと」という言葉は、生まれてきた赤ちゃんが残念な子であり、ちゃんとしていない子、あるいは「自分の出産はちゃんとしていない出産だった」と女性の心にインプットされます。

●医療者から「しっかり歩いたり運動しないと帝王切開になっちゃうわよ」と言われていた。そんな残念な出産になってしまった。
●経膣分娩をしたかった女性に医師が帝王切開を告げ、覚悟を決めて待っていた手術の準備中または術後に助産師から「もうちょっとがんばれば下から産めたのに」と言われた。
●術後、麻酔の影響から頭痛がひどくそれを伝えると「だから陣痛も耐えられなかったんじゃないの?」


特に「もう少しがんばれば下から産めたのではないか」という思いは、自分の経験を振り返っても新人から中堅になるあたりまではそう感じてしまっていたことがあるので、看護スタッフがそう思いがちであるのは理解できます。


たとえば分娩が遷延して分娩停止の理由で緊急帝王切開になった場合などです。
帝王切開に切り替える時期が遅くて赤ちゃんがぐったりして産まれてくるような経験をすると、早めに判断することの大切さが身にしみてきますから、「お母さんの頑張りの問題ではない」という帝王切開の当然の理由を理解するのかもしれません。
まあ、「もう少し頑張れば下から産めたのではないか」とはさすがにご本人に言うことはしなかったですが。


助産師や病院のスタッフからだけでなく、育児相談センターのスタッフから容赦ない一言を言われたことが挙げられています。

●産後育児が思うようにいかず、育児相談センターに電話で相談したところ、夫の立ち会いについて聞かれ「立ち会いはしていない」と言うと、「立ち会っているとご主人も手伝う気持ちが起こるのよ」と言われたので「帝王切開だったので立ち会えなかった」と伝えると「帝王切開だったの?だから愛情不足で育児がうまくいかないのよ」と言われた。

いやはや、こんなことをいう医療関係者がいるのかとさすがにびっくりですね。


<時代の反動という視点が必要ではないか>



帝王切開について医療者や周囲の人から言われた一言を読むと、一見「口は災いのもと」で片付きそうな内容でもあるのですが、もう少し深い視点が必要かもしれません。


「なんでそんなこと言っちゃうのかなあ」という医療従事者も周囲の人も、その人自身のモラルや性格の問題だけではなく、時代に大きく影響されてきているように思えるのです。


「いいお産」「人間的なお産」「温かいお産」「私らしいお産」「主体的なお産」「産む力」「産まれる力」といった言葉が広がる時代を経験した人たちは、よほど懐疑的にならない限りはその言葉の呪縛からは解き放たれないことでしょう。


その反動として、最近は「無事に生まれればそれで良いです」という方が増えてきたのかもしれません。


「お産を家族に返す」という言葉は何を指し、その対応方法として挙げられていることは何か。
次回に続きます。