気温が下がって来ても日差しはちょっと夏を感じさせるこの時期に、なぜか無性に食べたくなるものがあります。
それは、アミの塩辛です。
食欲の秋ですかね。
Wikipediaの塩辛を読むと、日本でもその種類はたくさんあるのですね。イカやタコ、カツオの塩辛ぐらいしか食べたことがありませんでした。
「たらこの塩辛」なんていうのもあるのですね。
ほんと、奥が深いです。
アミの塩辛は子どもの頃から大好きでした。
というのも、アナゴと同じく、倉敷の祖父母の家からの大事なお土産でした。
今の季節ではなくて、冬の寒い時期に持ち帰って、冷蔵してしばらく食べていました。
なぜか油を少し引いたフライパンでカラカラに炒ったものを、熱々のご飯に乗せて食べるのです。
相当しょっぱいのですが、その塩辛さがまたクセになるのですから、血圧も上がる食生活ですね。
イカの塩辛は子どもの頃から身近な食品でしたが、アミの塩辛だけは倉敷に行った時にしか手に入りませんでした。
こちらの記事の「本当はエスニック料理が好き」に書いたように、いろいろな国の料理を出すお店が増え始めたのが1990年代ですが、その先駆けが韓国料理だったのかもしれません。中華料理はそれ以前からすでに定着していましたが。
大久保に当時は珍しかった韓国料理の食材店が増えて、そこでアミの塩辛を見つけた時には歓喜しました。
キムチの味の一つがアミの塩辛だったことは、驚きでした。
当時は、すでに「高血圧の家系」を意識し始めたので、たまに買って、少しだけ炒って食べました。
<塩と出会って塩辛になる>
アミの塩辛を食べるときには必ずと言って良いほど、母が「倉敷には塩田があった」ことを話していた記憶があります。
叔母の家に遊びに行ったときも、「あの辺りは塩田だったから」と海岸を指差していた記憶がどこかに残っています。
アミと塩が出会ったから、あの美味しいアミの塩辛ができたというイメージがあります。
1960年代から70年代ごろにはほとんど塩田も残っていなかったのかもしれませんが、倉敷は干拓地だったことは知らなかったのに、塩田があったという歴史は子どもの頃から知っていました。
ただ、塩田王と呼ばれた野崎武左衛門の説明を読むと、私が思い描いていた塩田の歴史よりは短く、1827年に始まりそれから150年ほどだったのでしょうか。
その間に、アミを獲っていた漁師と塩が出会ってアミの塩辛が生まれたのでしょうか。
倉敷ではアミを、いつ頃からなんのために獲っていたのか。
その製法は、どこから誰によって伝わって来たのか。
東南アジアからなのか、韓国からなのか、それとも日本の他の地域からなのか。
アミの塩辛ひとつ取っても、その歴史を辿ることは難しいほど、事実は時間の中に埋まっていくようです。
「食べるということ」まとめはこちら。