10年ひとむかし 40 <倉敷美観地区>

倉敷に行ったことがない方でも、なんとなく倉敷美観地区はイメージされるのではないかと思います。
白壁と瓦屋根、そして木窓の美しい昔の家々が立ち並ぶ風景です。
そして大原美術館倉敷川の柳が、観光案内の写真の代表でしょうか。


子どもの頃に、大原美術館に連れていってもらったことがあります。
大きな白い石造りの立派な建物の中はひっそりとしていて、ピカソの作品だったか黒と赤のコントラストが印象的な絵が飾ってあって、初めて美術作品を間近に見て子ども心に何か圧倒されたのでしょう。
その時の記憶がはっきりと残っています。
そして倉敷川のほとりには柳があったこともかすかに覚えています。


今回の旅では日中には時間が取れなかったので、夜になってライトアップされた倉敷美観地区を歩いて見ました。
お店はほとんど閉まっていましたが、薄明るい外灯にほんのりと家が浮かび上がり、歩く人も少ない通りを歩いていると、子どもの頃に泊まったおじいちゃんの家の前の道をあるいているような気持ちになりました。
まだ開いていたお店で夕食をとることにしました。
私が半世紀前に大原美術館に連れてきてもらった話をお店の方にしたところ、70代前後と思われるその方が、「その頃はこの辺りは何もなかったでしょう」とおっしゃられました。


そういえば、子どもの頃にはまだ「美観地区」という名前を聞いたこともなかったと、その歴史に興味が出ました。
1990年代に20年ぶりぐらいに倉敷を訪れた時に、駅前に「美観地区」という表示があってあのあたりが保存されていることを知りましたが、どういう経緯なのか知らないままでした。
その当時は、美観地区への関心よりは子どもの頃から見慣れていた木造の倉敷駅舎が再開発で駅ビルになってしまったことが残念という思いが強くありました。
ところが今回、その1981年(昭和56年)に建てられた3代目の現駅舎を久しぶりに見たら倉敷の街に合うようなデザインで、時間をかけて街に馴染んでいるような印象を受けました。


<美観地区の歴史>


最初に「美観地区」という名前を聞いた時はバブル時代だったので、「名所を作って、観光客を呼び寄せて」といったにわか作りのイベント的な雰囲気なのかなとやや抵抗がありました。


どのような経緯で、いつ頃からこの計画ができたのだろうとWikipedia美観地区の年表を読んでみたところ、私の想像を超えた長い時間をかけたものであることを初めて知りました。


1930年(昭和5年)に大原美術館が建てられ、それから数年後に計画が始まったようです。

1937年(昭和12年)後のクラボウ社長、大原總一郎がドイツの城郭都市、ローテンブルグを訪れ、倉敷の町並み保存を思いついたと云われている。
1948年(昭和23年)倉敷観光協会が本町、前神町向市場風致地区に指定する。
1955年(昭和30年)倉敷市により倉敷川河畔の護岸工事と柳の植栽が始まる。
1956年(昭和31年)倉敷の街並みが日本全国に紹介された。
1967年(昭和42年)街並みの保存事業が本格的に始まり、翌年「倉敷市伝統美観保存条例」が制定。
1969年(昭和44年)「倉敷川河畔特別美観地区」に指定。"美観地区"の呼称が初めて使われた。


私が子どもの頃に見たあの柳は、植えられて10年ほどたったものだったようです。
日本が戦争へ突入し始めた頃に保存を思いつき、そして終戦直後からすぐに保存が始まったようです。


今回、倉敷市岡山市のあちこちを歩いてみましたが、駅前の美観地区に限らずいたるところで「美観」が息づいているような印象を受けました。
新しいデザインの家もあるのですが、伝統的な建築方法を残した新しい家を作っているところもあり、その周囲には用水路や水路そして田畑が残り、昔は島だった山々がポツンポツンと残っています。


半世紀前に子どもの頃に見ていた風景とはだいぶ違っているはずなのに、なにか落ち着いた懐かしさを感じるのは何故なのだろう。
もう少し、倉敷周辺の歴史を知りたくなりました。



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