数字のあれこれ  45 <人間の距離感>

日本だと「人」や「人間」という漢字を使って「ヒト」を表すので、「人の漢字を見るとわかるように、人間は支え合って生きて行くもの」とか「人間は一人では生きていけない、人と人の間で生きるのだ」という話は、どこかで一度は聞く話ですね。
あるいは言いたくなる話でしょうか。


確かにするりと心を掴みそうになる話ですが、英語のhumanはどうなのだろうと検索して見たら、アルクの「英辞郎on the WEB」には「(動物と異なる)人」とか「(神と異なり)間違いを犯す、不完全な」といった意味まで含まれていました。
huはラテン語の土から来ていて、神に対して人間は土から生まれ出でたものという意味があることは、確か犬養道子さんの本で読んだ記憶があります。
同じといっても思いつくものが違うほど、言葉で表現することと発想の差は大きいのかもしれませんね。


私自身は、最近「人間」というのは人と人の距離感のことを指すのではないかと考えることが増えました。
そしてその適切な距離感も人それぞれなので、まあいろいろと厄介なのだと。


あ、今日も人生を語るとかそんな大仰な話ではなくて、生活上の卑近な話ですけれど。


<距離感が多様化してきたのかも知れない>


ここ10年、いえ数年ぐらいでしょうか。
私が利用するいくつかの鉄道の駅の風景が、少し変化したように感じます。


そのうちの一つに、ホームで電車を待つ間、前の人との距離が開いて来たことです。
粛々と出勤する朝の時間帯はまだそうでもなくて、前の人との間隔を開けずに整列しているのですが、それ以外の時間帯はそれぞれが好き間隔で、さらに好きな場所でアトランダムにという状況もあって、どこにどう並んだらよいのかわからないこともあります。



前の人との間隔があいてきた理由は多くの人がスマホを眺めていることと、さらに先日ニュースになっていたリュック型のバッグを背負う人が増えたことが大きいのではないかと感じています。
自分がスマホを見ている時にはあまり考えないのですが、他の人がスマホを見ている姿を見ると、ただ立っているだけよりは1.5倍ほど前の場所が必要になりそうです。
さらにリュック型のバッグを背負ってスマホを見ていると、ただ立っているよりは前後に2倍ぐらいのスペースを使っているように見えます。


後ろの方の人はホームの端から落ちそうなところに並ばなければならないほどの混雑でも、前の方に並んだ人は悠々としていてあまり後ろのことは気にしないようです。


一見ぎゅうぎゅう詰めの満員電車でも、そこかしこに微妙にスペースが開いています。
そこをもう少し詰めてくれたら楽になるのにと思うのですが、だいたいはスマホを見ているためにスペースが空いていたり、ドアに寄りかかってこちら側を向いてスマホを見ているので、距離を詰められない微妙な場所です。


この距離感がここ10年ぐらいで本当にどれだけ変化したかはあくまでも印象ですが、もしそうであれば、スマホの出現が相当、ヒトの感覚と行動を変えるきっかけになったのではないかと観察しているのですが事実は如何に。


まあ、距離感は気持ちの問題ですし、マナーやルールといった社会の気持ちに解決策を見出そうとしても、なかなか収拾がつかない話になりそうですね。
きっと、前の人との距離も一人一人、快適と感じる幅が違うことでしょうし。


こんな時には、頭の中で「このドアや手すりに寄りかかっている駒(ヒト)をこちらへ向かせて、ここへずらすと、この駒(ヒト)がこう移動できる」と脳内ゲームで気を紛らわすことにしています。


まあ、普通に立っていても座っていても、他人と体や服が密着しなくて済むぐらいのゆとりのある電車のスペースが理想ですけれどね。
あれ?
今日は「数字にしずらい話」になってしまいました。




「数字のあれこれ」まとめはこちら
犬養道子氏に関する記事のまとめはこちら