存在する 26  迷うとか戸惑うとか

2年前の今頃は、座る時にも他の人との距離を取るようになったので、肘鉄の頻度も大腿部に座られる頻度も激減しました。

にっくき未曾有の感染症拡大の中でも、唯一、ありがたいと思った現象でした。

最近、人の流れが元に戻り、また肘鉄攻撃にあっています。

 

あの電車の一人分のシート内に十分余裕な体格の人からでも肘鉄をくらい、男女年齢にも関係ないようです。

「(お願い、正面の窓ガラスで自分の姿を確認して。すごくこちらに肘が出っぱっているんですけれど)」とぎゅーっと肩をすぼめて座っています。

 

毎日の通勤電車では、この私が存在していないかのように振る舞われる他人との格闘という感じですね。ちょっと大げさですけれど。

 

 

 

*自分が安全に行動できているのは自分の能力だと思っているのか*

 

電車内や駅周辺の人混みでの行動の変化のようなことを年に一回ぐらいは書いているようで、危険と大丈夫の差はどこからくるのかというようなことを一年前に書いていました。

 

定点観測のような記録も、こうして読み返すと生活の変化の記録になるかもしれませんね。

 

ここ数年感じるのが、歩いている途中で突然立ち止まる人が増えたことと、通路の端によって歩くことをしない人が増えたことでした。

 

四方八方からくる人の中で前を歩く人との距離も意識しながらぶつからないように歩いている状況で急に立ち止まるので、何をしているのかと追い越しざまにチラッと見ると、スマホのメールだけでなく、テレビやゲームの画面を見ていることもしばしばです。

あるいは一緒にいる人と急に立ち止まってしゃべり始めたり。

あるいは、あと10cmほどどちらかによってくれれば、後ろに渋滞している人の流れがスムーズになるのにと思うことが増えました。

 

スマホを操作しながらこの人混みをうまく歩いている自分」だと思っているのでしょうか。その動きに迷いながらも周囲の人が危険を回避しているから安全に歩けていることが認識できていない人、に私には見えるのですが。

 

スマホの出現だけでなく、自分以外の存在が見えていないような動きをする人が増えたような気がするのですが、ちょっと子どもっぽい行動というか。

もしかすると、あのあたりが時代の変化だったのかなと思い返しています。

 

 

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