行間を読む 126 津山線と姫新線

少し間があきましたが、ただひたすら川と水田を見に倉敷を訪ねた記録の続きです。2日目は早朝の美観地区を歩いてから倉敷駅に向かいました。

 

ここからは川沿いに津山線に乗り、津山で姫新線に乗り継いで姫路まで中国山地の真ん中の川と水田を見る車窓の散歩です。

 

1960年代終わり頃か1970年代に入る頃、小学生の頃に家族旅行で宍道湖や出雲大社に行きました。

祖父母の家の周辺の平野しか知らなかったので、中国山地の山の風景に入っていくことがなんだか心細かった記憶があります。

 

あの時は、父が購入した小さな国産車で旅行しました。今思い出しても座席も硬く狭い車内で快適とはいえませんでしたが、両親にすると「重い荷物を持って、子どもの世話をしながら列車の乗り換えをしなくて済む」ことが夢のようだというマイカー時代の幕開けでした。

 

記憶と時代の変化をたどると、あの頃が地方の鉄道も全盛期だったのかもしれません。

あの備後落合駅で見た写真のように活気があり、人や物流が鉄道網によって広がっていったのが1950年代60年代だったのですが、子どもの頃の私は鉄道に乗る機会が少なくほとんど記憶に残っていません。

 

数年前から岡山周辺の地図を眺めるようになって、中国山地の背骨に沿って走る鉄道が気になり始めました。そしてまるで肋骨のように、山陰と山陽を結ぶ鉄道がいくつもあります。

これに乗ってみたい。

一昨年は伯備線に、昨年は芸備線に乗りました。

 

 

*中国鉄道本線の歴史より*

 

小学生の頃の山の中の寂しいところを通っていたような記憶とは全く違って、田畑が広がり、大きな家々がどっしりと見えました。

そして、ずっとずっと昔から続いていることがわかる街並みを歩きました。

岡山がまだ岡と山がほとんどで平地が少なかった時代は、ここが人と物の交通の要所だったこととつながりました。

 

Wikipedia津山線の「歴史」にこんなことが書かれていました。

「国有化以前」

 

岡山県の県庁所在地である岡山と美作地方の中心都市の津山とは明治維新以降人や物の往来が増加していた。古くから両都市を結ぶ津山街道(現在の国道53号とほぼ同じルート)があっが、辛香峠などの難所があった。また、当時の岡山県の南北交通で主流であった舟運(高瀬舟)を使おうにも岡山は旭川水系、津山は吉井川水系であり、旭川を北上して福渡から津山街道に入るか落合までさらに北上し院庄から津山に入るなどの方法しかなく、人やものの往来に困難をきたしていた。このため最新の交通手段である鉄道の敷設が企画され、1896年4月30日に中国鉄道が設立された。

(強調は引用者による)

 

同年に岡山ー津山ー勝山ー根雨ー米子の免許が下り、早くも7月には起工、1989年12月21日に「中国鉄道本線」として岡山市駅ー津山駅(現在の津山口駅)までが開業した。津山駅以遠は建設を断念し免許は失効、のちに国により姫新線伯備線として建設された。開業区間にはほぼ津山街道に沿う形ではあるが、法界院駅野々口駅間は難所の辛香峠を避け、旭川沿いに建設されている。建設は国の技術によらなかったため、曲線やトンネルの断面などが独自の規格となっている。現在でも曲線半径が綺麗な数字になっていないのはこのためである。

 

ここを読んで、津山線姫新線という鉄道がなぜあの山間部を通っているのか、少しわかりました。

 

この箇所を読むと当時まだ岡山の海岸線に鉄道を通すのは難しかったのかと思ったのですが、Wikipedia山陽本線の歴史には「1888年兵庫駅明石駅間が開業し、翌年に神戸駅竜野駅も開通。以降順次以西へと路線が伸びて、1901年に馬関駅(現在の下関駅)まで開通」とありますから、120年ほど前の岡山は山側と海側にほぼ同じ頃に鉄道が通ったようです。

 

この1900年前後の、鉄道と沿線の風景や生活はどんなに変化した のでしょうか。

祖父母が生きていた時に、もっと話を聞いておきたかったとつくづく思います。

 

 

 

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