散歩をする 362 小貝川と鬼怒川の間を歩く

福岡堰に圧倒され、小貝川がつくりだした地形と、ふらりと立ち寄った水田の歴史にまた圧倒されながらバス停へと向かいました。

 

蛇行した石積みの堤防も美しく、そのそばをしばらく歩いてから、名残惜しい水田の風景をなんども振り返りながらバス停のある高台へと坂を上りました。

竹やぶや林の向こうに落ち着いた住宅街が見え、地図にはない小さな神社がありました。

 

この散歩は2ヶ月前の11月中旬に行った記録なのですが、その時のメモにこんなことを書き残していました。

ランキングなんて不要

それぞれの地を築いてきた人への敬意がない視線が嫌い

たしか都道府県ランキングが出たあとで、感情が爆発したようなことを書いていました。

もう少し穏やかな表現にすると、「つまらない場所や自治体なんてない」という感じ。

 

 

さて、コミュニティバスはまた複雑に入り組んだ高低差のある場所や水田を抜けていきます。

途中の交差点に「治水豊穣」と書かれた石碑がありました。本当に何世紀もの先人の努力ですね。

なんと、パパイアを栽培している畑が見えました。三十数年前、日本に帰ったらもう二度と食べる機会はないかもしれないと思っていたことが嘘のようです。

 

つくばエクスプレス万博記念公園駅で下車し、そこから守谷駅関東鉄道に乗り換えて水海道駅に向かいました。あの「将来、何になりたいの?」と尋ねられた少年と出会った路線です。どうしているかなと懐かしく思い出しました。

 

*小貝川右岸の堤防を歩く*

 

12時35分に水海道駅に到着し、東側へと歩き始めました。数分も歩くと小貝川の堤防です。付近の住宅街よりも一段と高いところに土手があり、地元の方でしょうか歩いているのが見えました。

その向こうに小貝川が見えるかと思ったのですが、堤防の内側には林が広がり、水面は見えませんでした。

それでも土手の上を歩くだけでも、楽しいものです。

 

水門が見えて対岸の街が見える場所で、小貝川の流れが少し見えました。美しい川です。

ここで土手から降りて、そばに神社があるので立ち寄ってみました。駅の案内板では「愛宕神社」でしたが、「鷲神社」と鳥居にありました。

 

御由緒はわかりませんでしたが、地図ではこの辺りが小貝川と鬼怒川が最も近づいた場所です。

 

*八間堀から鬼怒川へ*

 

いったん、街の中心部へと戻りました。

鬼怒川と小貝川という大きな河川に挟まれた場所ですから、ちょっと小高い「尾根」のような場所を想像していましたが、水海道駅周辺はほとんど高低差を感じませんでした。

 

いつもの散歩や遠出はお昼ご飯を食べそびれるのですが、今日は時間に余裕があります。

蕎麦屋さんがあったので、ふらりと立ち寄ってみました。玄関で靴をぬぎ、庭園のある奥の間へ通されました。もしかして値段も高いお店だったのだろうかと、ちょっと冷や汗をかきながらメニューをみると、普通のお値段でした。

悩んだあげく、やはり親子丼とお蕎麦のセットになりました。

濃いめの関東風のお醤油なのですが、塩分は控えめで美味しくいただきました。

 

満足して歩き始めると、小貝川と鬼怒川との中間点ぐらいの場所でしたが、電柱に「2.0m    鬼怒川 想定浸水深」の表示がありました。小貝川より、鬼怒川の水が流れ込むようです。

 

目指すのは八間堀で、地図では小貝川と鬼怒川の間を北からまっすぐ用水路のような水色の線が流れてきて、水海道の少し北東で流れを変えて、途中、直角に曲がり鬼怒川へと合流しています。

橋がぐいと高くなっていて、「新八間堀川」がありました。のぞき込むとやはり放水路に近いような川です。その横から鬼怒川との合流地点まで歩き、鬼怒川の土手に出ました。

 

広々とした河川敷が広がっていて、川のすぐ近くまでいけます。

悠々とした流れと、遠くに見える山、しばらく川面を眺めながら歩きました。

 

堤防に石柱が建っていたので近づきました。

水海道河岸には「鬼怒川の水は尽くるともその富は尽くることなし」と称えられた豪商たちが店を連ねた。河岸の最も栄えた幕末から明治初期にはこの一帯に河岸が並び、1日の百艘ほどの舟が出航した。河岸の繁栄は常総鉄道が開通する大正二年(一九一三)まで続き、物資流通の拠点として活躍した。

 

その少し離れたところに、石が崩れそうな上に祠がある小さな「水神宮」がありました。

 

 

*二つの川の浸水域が交わる場所*

 

土手から離れて高台の水海道天満宮のそばを通り、また下り坂を下りて水海道駅に向かって歩くと、「4.0m  小貝川 想定浸水深」の表示がありました。ここはどちらかというと鬼怒川に近いのに小貝川の影響を受けるのかと思って歩いていると、数百メートルもいかないうちに今度は「4.0m   鬼怒川 想定浸水深」の表示がありました。

 

小貝川と鬼怒川が最も近づいた場所はほとんど平地に近いような場所だったことが、実際に歩いてみてわかりました。

 

と、あの日のことを書きながら思い返しているうちに、伊奈忠次が「鬼怒川と小貝川を分流した」というのはあの八間堀のことだったのだろうかと、またわからないことが出てきました。

 

 

 

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