イメージのあれこれ  24 身土不二

身土不二

この言葉を知ったのは、助産師の中に広がる自然療法に疑問を感じていろいろ考え始めた10数年ほど前のことでした。

こちらの記事に書いたように、doramaoさんのブログのおかげでこの言葉の出どころを知りました。

「自然を破るもの、即ち身土不二の原則を踏みはずしたもの(季節と郷土の伝統が許さないもの)」(doramaoさんのブログより)という価値観を知った時には、「昔はそうであっても、現在にはなじまない」と受け止めていました。

「そういう昔」があったのだろう、と。

 

 

最近、あちこちを散歩というか小旅行をするようになって、電車の車窓からみる風景だけでも「こんなに日本の地形は場所によってさまざまなのか」と驚いています。

年末にぐるりとまわった房総半島は、トンネルをくぐるたびに集落の様相が異なりました。

水田が広がっているところもあれば、天水にたよっていそうな畑だけの地域もありました。

谷津に沿って、小さなさまざまな形をした水田が少しだけある地域もありました。かろうじて水源があって、日当たりもなんとかなった地域でしょうか。

水田も畑さえも作れなさそうな漁村もありました。

現在は、そういう場所でもトンネルや道路があり、物が行き来できます。でも昔は、この地形に合わせて生業を営むしかなかったでしょうし、他の地域との行き来も限られていたことは容易に想像できます。

 

白米よりも玄米を勧めることも、「より昔の人のような健康な食事」というイメージがあるからだと思いますが、干拓地の歴史や稲作の歴史を少し思い返すだけでもお米をお腹いっぱい食べられるようになったのはここ半世紀ほどにすぎないことがみえてきます。

 

「昔、そんな生活をしていた」というのはごく一部の人の思い込みにすぎなかったのだろうなと、あちこちを歩くことでようやく自分の中で整理できました。

 

Wikipedia身土不二の「食運動での『身土不二』」を読むと、1907年(明治40年)に発足した食養会の「その土地、その季節の食物がいいという考え方があった」という「独自の理論」が始まりで、昭和に入って以下のように広がっていったことが書かれています。

昭和に入ると、「地元の食品が良いという考え方は、仏教に基づく日本の伝統。」との説が、有機農業・自然食販売業・一部農業団体・代替療法などの分野で広まった。例えば、食養思想を元にマクロビオティック を創始したことで知られる桜沢如一が、身土不二法華経に基づくと記している。

 

「昭和」といっても一口にはその時代を語れないほどの変化があった時期ですから、この説明はちょっと物足りなく感じますが、桜沢如一を読むと、貿易商、食養会反戦運動の活動など活発に海外にまで行き来していたようです。

もしかしたら、その同じ頃に日本の各地から出稼ぎや移民、あるいは干拓地への入植など決死の覚悟で食べるために故郷を出た人たちがいたことを知らなかったか、知っていてもみえていなかったのかもしれない。

そんなことを思いつきました。

 

「10年ひとむかし」まとめにも書いたのですが、自分が生きている中で20年ほどの長さというのはまだ「歴史」として振り返られていないので案外、見ていないことが多く、過去・現在・未来の続きを見誤りやすいのかもしれませんね。

 

「昔はよかった」と思いたい気持ちを裏返せば、現在の自分への大きな漠然とした不安なのかもしれない。

だからこそ、最初は小さな思い込みだったものが次第に強固に信念となって行く。

 

 

最近、あちこちをまわって見た車窓の風景から思い出した「身土不二」という言葉について、でした。

 

 

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