散歩をする  113 水害の歴史をめぐる旅

紀伊半島を一周するにあたってどこに宿泊するかが、最初の楽しい悩みでした。

漁港と地形を見ることを考えると、勝浦、太地あるいは串本あたりかなと最初は計画を立てたのですが、ふと、二十数年来の課題を思い出しました。

 

台風の季節になるとニュースで耳にする紀宝町がなぜか1990年代頃から記憶に残り、地図を眺めてはどんな町なのだろうと想像していました。

まだパソコンの地図も航空写真の地図もない時代でしたから、熊野川の河口付近のその地域を平面的に思い浮かべるだけでした。

 

紀伊半島に行ってみたいという思いが強くなってから、なんどもそのあたりの地図を拡大したり縮小して眺めていました。

熊野川の真ん中が三重県和歌山県の県境になっていて、紀宝町三重県側にあることも始めて知りました。その紀宝町相野谷川に沿って街ができていて、相野谷川熊野川に合流するところに鮒田水門があることがわかりました。

熊野川の河口は海の手前で大きくS字状に蛇行し、河口が急に広くなっています。海との境目には、大きな砂州が地図に描かれています。

 

対岸は新宮市で、特急も止まるようです。新宮市に一泊し熊野川の河口をみるという、「いつか行く時のための計画」ができたのでした。

いつ行くかわからないけれど、何気なく新宮の年間の天候などを読み始めたら、3月に入ると急に雨量が増えることを知りました。たしかに、紀伊半島の南側の沿岸部を低気圧が通って雨マークになっていることもしばしばあります。

これも房総半島と似ていますね。

 

そして2月ならJRも閑散期らしいので、特急も海側の席を取りやすそうです。

行くなら今だ!

冬の青い空が映えた川や海を眺めよう。

一番の目的地は熊野川河口ということにしました。

 

木曽三川を見る*

 

暇さえあれば地図を眺めているはずですが、地図もまた見ているはずなのに見ていないことがたくさんあります。木曽川長良川、なんとなくどの辺りか知っているような気になっていたのですが、木曽三川公園を見つけて揖斐川長良川木曽川木曽三川という言葉と、その3つの川の位置関係や歴史をはじめて知ることになりました。

輪中は習った記憶があるけれど、それ以外は忘れたのかもしれません。

かつて、この三本の川は、下流部で合流・分流を繰り返し、川幅も広く、たびたび水害を起こしていた。そのため、木曽三川下流域の渡河は難しく、織田信長の伊勢侵攻も美濃から南下する作戦が採られ、東海道五十三次においても七里の渡し(またはその代替となる三里の渡し・十里の渡し)による渡海を必要とした。このため、江戸時代以降何度となく改修が行われてきた。有名なものは薩摩藩が行った宝暦治水とオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケらによる木曽三川分流工事である。

この数行の歴史の行間を、これまでの他の地域の散歩からだいぶ深く読めるようになったかもしれません。

 

行って見たい場所のリストに入っていたこの木曽三川を見て廻ることが、にわかに現実味をおびてきたのでした。

 名古屋から桑名までの地図を見ていると、水色の様々な線が蛇行したり、用水路が整備された干拓地と思われる場所を近鉄線が通っています。

そして、長良川河口堰のそばを通るようです。

あの伊勢湾台風の時代からの変化を、車窓から見ることができるかもしれません。

 

 

名古屋から近鉄に乗り、この木曽三川を見ることができる木曽三川公園へ行き、その日は新宮に一泊して熊野川河口周辺を歩き、翌日はただひたすら海と川を眺める。

期せずして自分の中の災害史を正確な年表にする旅の計画ができあがり、一週間後には列車に乗ったのでした。

 

 

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