風景は「楽しむ」という言葉が似合いそうですが、私は小さい頃からどちらかというと「風景を観察」していたように思えてきました。
あちこちに遊びに行く時だけでなく、ふだんの通学など見慣れた風景まで、いつも目を凝らして見ているようなところがあったかもしれない、と。
それが顕著になったのが、1980年代に生活していた東南アジアでした。
街並みや風景の違い、あるいは日本では見ることがないような植物に圧倒されたり、水田が広がり稲の香りは日本の風景と同じなのに収穫から販売まではまったく違っていたり、トイレに入るのにチップが必要とか、日本とは全く異なる気候や文化が物珍しかったので、なんでも見てやろうという感じでした。
また、治安の悪い国でしたからバスやタクシーに乗る時にも緊張感を持って周囲の状況を観察していました。
車が走り出すと、ずっと車窓を眺めていました。
それこそ、まばたきも惜しいくらいに眺め続けていました。
その国で生活し始めると、首都との往復で見慣れてきた風景でさえ、なんども飽きずに眺めていた記憶があります。
一度通るとけっこう風景を覚えていて、次に通る時にはすでに懐かしさを感じ、そしてまたその地域の雰囲気や産業など、特色を把握していました。
90年代に入って私自身が30代になると、貧困とか人権といった問題に関心があったので、一度でも通過すると多国籍企業やプランテーション、道路や港湾などの位置などからその地域の何が問題なのかをおおむね把握することができました。
こちらの記事に書いた以下のような感じです。
強い感情に後押しされた時というのは情報や知識が自分でもおもしろいほど増えて、社会の構造や問題点がまるでパズル組み立てていくかのように見えてきます。
今も、どこへ行くにも相変わらずまばたきを惜しんで車窓の風景をながめ続けているのですが、見ているはずなのに見ていないことがたくさんあることよりも、「自分はぱっと見て全体を把握することが得意だと自負していた」30代だった頃のあの自信はどこからきたのだろう。
ちょっと冷や汗が出てくるこのごろです。
あの頃の違いといえば、今は「正しさ」を脇において、ただただ風景を眺められるようになった。
実際に歩いてみたり、その地域の歴史を知ることで見る角度から風景の印象ががらりと変わることにおもしろさを感じられるようになった。
そんなあたりでしょうか。
「観察する」まとめはこちら。