6月下旬、九州への二泊三日の遠出から戻って、一週間後にまた出かけました。
前回とは違って低気圧が通過中のため、都内の早朝は土砂降りの予報でした。5時過ぎに自宅を出る時にはちょうど雨足が弱くなった時で助かりました。品川に向かう電車の中で、また激しい雨でしたが、もうここからは雨に濡れることはありません。
6時37分ののぞみ5号に乗りました。1週間前はほんとうにガラガラでしたが、やはり緊急事態宣言が終わると人出が増えるようで、指定席の窓側の席はほぼ埋まっていました。
多摩川を越えるあたりで小雨になり、三島の手前ではすっかり雨があがって夏山姿の富士山がくっきりと見えました。下の方には雨上がりのもやがかかって水墨画のようです。
藤枝を過ぎる頃にはすっかり晴れになりました。
またお天気に恵まれた散歩になりそうです。
一週間前に瞬きを惜しんで眺めた新幹線の往復の車窓の風景ですが、またずっと顔をつけて見ていました。
田植え直後だった水田はわずか一週間で、すっかり緑の芝生のように柔らかい稲が育っています。
またずっと水田を目で追いました。ほんとうにどこも水田地帯は美しいですね。
矢作川を渡ると、右岸側はこの時期に代掻きをしていました。6月も終わりという時期にも田植えの準備をする場所があるのかと考えていたら、またあっという間に大高トンネルを通過してしまい見過ごすという痛恨のミスです。新幹線はほんと、速いですからね。
ああ、一瞬たりともぼっとしていてはせっかくの風景を見逃してしまうと、また集中していたら今まであまり目に入っていなかった場所が見えてきました。
名古屋を過ぎ、木曽三川を渡る手前に、庄内川が流れその次に新川がありますが、その右岸側に水田が広がっていました。歩いてみたくなります。
沿線の風景をもっと眺めていたいのですが、9時46分には岡山駅に到着しました。
*車窓の風景の記憶*
まるでおもちゃかジオラマのような新幹線の車窓の風景は、同じ場所をながめていても全く飽きることがありません。
たぶん、何百回と乗っても飽きることはないかもしれないと、最近思うようになりました。
幼児の頃からこの「車窓」の風景をずっと眺めるのが好きだったのだと、記憶をたどっています。
私が幼児の頃に父が自家用車を購入しました。その後開通した東名・名神高速道路の沿道の風景など、断片的に残っています。
車に乗るとずっと窓の外を眺めていましたから、山を切り通して造られた道路脇の崖まで、飽きることもなく眺めるのが好きでした。
おそらく最初は「酔うといけないから窓の外を見ていないさい」とでも言われていたのでしょうか。
今でも車酔いとは無縁で、ただただ変化する風景が好きなのは変わりません。
車窓の風景が好きなのだと自覚したのが、1980年代に東南アジアで暮らしていた時でした。
月に1~2回、難民キャンプから首都へと休暇がてら行き来していたのですが、日本人には見慣れた水田地帯の風景なのにハイウエイの路肩に収穫した穀物が天日干しされていたり、停車するとお菓子や果物を売りに来る人が集まったり、小さな街の学校や教会、市場など、日本とは雰囲気が違いました。
今も、その路線の車窓の風景を、ビデオで巻き戻しているかのように思い出します。
当時もずっと車窓の外を眺めていたのでした。
*風景に飽きることがない*
「散歩」を意識するようになってからはさらに、通勤途中の車窓の風景でさえも飽きることなく見ています。
地図で確認し、実際に歩いてその地形を実感するようになると、同じ風景なのに今まで目に入っていなかったことが見えてきたり、いつの間にか定点観測になっているのか、変化に気づくという面白さもあります。
その能力が何かに生かされているかというとほとんどなさそうですが、この年齢になっても「世界はひろいな」と退屈することがないのは、このおかげかもしれないと思うようになりました。
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