米のあれこれ  10 麦秋

分水を訪ねるために6月初旬、上越新幹線に乗りました。

 

大宮を過ぎたあたりから、田植えを始めている水田が見え始めました。

昨年古代蓮を見に行ったあの行田市のあたりまでは、これから田植えという風景でした。

東北の水田よりさらに1ヶ月ほど遅い風景に少し驚きました。

 

しばらくして本庄、藤岡あたりで風景が一転して、一面、収穫の時期を迎えた麦の風景になりました。

1ヶ月前に東北の川と海をみて回った時、新潟からの帰路ではまだ緑色の穂でした。

ああ、これが麦秋なのかと、初めて見る風景に惹きこまれていきました。

そして、すでに麦の収穫を終えた畑は、田植えに向けて準備が始まっているようでした。

雨が少なく、乾燥した季節ではあるが、すぐ梅雨が始まるので、二毛作の農家にとって麦秋は短い。 

 

私が高校生まで過ごした地域では、米の収穫の後は青菜類を栽培しているようです。

また倉敷の祖父の水田でも、麦が植わっていた記憶がありません。

麦を栽培している風景をほとんど見たことがありませんでしたから、てっきり北海道などの大規模農場だけで作られているのだと、今まで思い込んでいました。

 

Wikiprdiaの二毛作の「概要」を読むと、私が麦秋を実際に見る機会がなかった理由がわかりました。

かつての日本の農業においては、春から秋にかけてイネをつくり、秋に収穫してから 翌年の春までは麦などを作っていることが多かった。一回目を表作、二回目を裏作という。日本では稲麦二毛作鎌倉時代から普及したが、高度経済成長期頃から、輸入穀物に価格面で対処できなくなり、あまり行われなくなった。現在は畑作野菜で二毛作や三毛作が一般的に行われている。

 

二毛作という言葉は知っていたのですが、実際には長い長い試行錯誤や失敗があったのですね。

イネの場合、水田での栽培ということもあり、連作障害が発生しにくかったが、一般的には二毛作を行うと地力が低下し、次第に生育不良となっていく。これを回避するため、三圃式農業や輪栽式農業として発展していった。中世には地力を補うために厩肥や下肥を補うようになったが、二毛作を行うために必要十分な量を確保できたのは人口密集地域の近郊に限られ、鄙びた地域では裏作に麦を作ることはできなかった。 

 

麦秋」の風景には、人口密度も関係しているということでしょうか。

 

そして、次の一文に興味をそそられました。

近年、FOEASという地下水位制御システムが開発され、農地の高度利用がしやすくなった。 

どんなのシステムなのでしょう。

関心を持っていれば、きっとその答えに出会うような予感がしますが。

 

ああ、やはりえいっと分水行きを決めて良かった。

麦秋の風景を見ることができただけでも、旅のすごい収穫でした。

 

 

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