記録のあれこれ 37 長岡東山油田 中島地域製油所記念碑

あちこちを散歩しているうちに、以前は通り過ぎていた記念碑や説明書のひとつひとつに惹きつけられるようになりました。

初めて知ることもあれば、「そういえば学生の頃に習ったことはこういうことだったのか」と確認することに充実感があります。

 

長岡市の水道公園に「長岡東山油田 中島地域製油所記念碑」もありました。

小学生の頃だったでしょうか、日本海岸側には油田があることを習ったのは。

「資源がない日本」と言われ続ける中で、石油やガスが採れる地域があることを羨ましく感じたのでした。

 

記念碑にはこう記されていました。

東山油田で採掘された石油のほとんどが中島地域の製油所で精製されました。中島地域には、明治三十年初めに二十ヶ所以上の製油所が林立していました。山田又七(和島地域出身)率いる宝田石油の製油所は、国内最大級の規模を有していました。中島地域で精油された石油は、柿川から信濃川を通じて新潟港から海運で、長岡駅からは鉄道を通じて新潟県内はもとより全国へ出荷されました。中島地域の製油所は、長岡市の商工業の発展をリードするとともに、日本の石油業の成長に大きく貢献しました。 

 

検索すると東山油田の説明がありました。

長岡市南部より三条市に連なる東山丘陵山中では、古くから『くそうず(草生水、臭水)と呼ばれる、燃える水(原油)が湧くことが知られていた。明治中期になって採掘に成功し、噂を聞きつけた多くの起業家が競って油井開発に乗り出し、長岡の街は活況を帯びた。しかし明治末期には早くも産油量が減少に転じ、衰退が加速して行く。戦時下には収量を少しでも取り戻すべく世界的にも稀な坑道堀りによる原油採掘も始まった。

数多の企業統廃合を経て統治に出現した宝田石油は、後に日本の石油産業における基礎の一端をなした。また油送管を筆頭に、採油に関する鉄鋼製品を供給する目的で、長岡に鉄工所が多く出現する契機にもなった。 

 

1873(明治6)年から始まった採油は、1997(平成9年)まで行われていたとのこと。

 

 

あの消雪パイプの開発も、東山油田の歴史が関係しているのでしょうか。

こうした記念碑のおかげで、子どもの頃の知識を重層的に理解できるおもしろさを感じるこの頃です。

 

 

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