9月5日から15日までロンドンで開催されていた「パラ競泳世界選手権2019」を、NHKが放送していました。
録画したものは全部で数時間以上あるので、今、ぼちぼちと観ているのですが、一旦見始めるとその泳ぎに引き込まれていきそうです。
画面右上にある「パラ競泳」の文字がなかったら、水中映像がなかったら、あるいは多様なスタート方法や介助者の姿の映像がなかったら、泳いでいる途中だけの映像を観ていると「世界水泳」の録画かと勘違いしてしまいそうです。
水の映像の技術はどんどん進んでいるので、水しぶきの中でもけっこう泳ぎの技術がわかるぐらい鮮明に映ります。
ところが、何がどう障害なのか一瞬わからないほどの抵抗のない泳ぎで、水中映像や解説で初めてわかることもしばしばありました。
独創性のある泳ぎが、泳ぎの究極の目標に近くに書いたように、自分の体の動きと水の抵抗を記憶しながら無駄なことを削ぎ落としていけば自ずとスピードも出て美しいフォームになるのだろうと思いました。
記録を見ても、日本選手権の予選、準決勝ぐらいに出場できるのではないかと思う速さでした。
「自分は速い」と思っている「普通」に泳ぎが上手な人たちにそれこそ水をあける記録で、私が通っているプールだったら、もうぶっちぎりの速さです。
「抵抗のない泳ぎ」を極めるためには、いかに自分の泳ぎを客観的にイメージできるかが大事なのではないかと思うのですが、心身に障害がなくて自分のことが見えているつもりの思い込みの方が、むしろ泳ぎの障害になるかもしれませんね。
あるいは追い詰められることで精神的に病んだ選手たちは、「障害」ではないのだろうか。
そうなると泳ぐための「障害」の境界線って何だろう。
今はパラという境界線が必要な、障害者スポーツのあけぼのの時代なのかもしれませんが、何十年かすると同じ競技会で競う時代がくるかもしれないとちょっと妄想してしまいました。
最近、競泳では男女混合リレーとかあって、男女の境界線も変わりましたし。
ただひとつ、中には持病の悪化と闘っていらっしゃる選手もいるようですから、記録やメダルのためだけとか、感動のためにパラ競泳に期待しすぎないようにしなければと思いました。
水泳が「水」を媒介するが故に、「技術の自由度」が非常に高い種目でもある。
その点がパラ競泳ではさらに奥が深くなる。
だからこそ引きこまれていくのだと思います。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。