笠岡からは山陽本線に乗り、今日の宿泊地である倉敷へ向かいました。
しばらく山の間を走ると、平地が広がります。左手に新幹線の高架が見えて、新倉敷駅周辺の水田地帯をしばらく並走しています。
旅の最終日の午前中は、この辺りを歩く予定です。車窓からは、懐かしい半世紀前の祖父の家の集落のような家並みがあちこちに残っていて、倉敷よりはよほど倉敷の風情が残っていることに心が踊ったのでした。
*倉敷の島々と干拓地*
こちらの記事で下記の箇所を引用しました。
市内には児島、亀島山、玉島、連島など『島』のつく地帯が多く、それらの地域が地続きになって今の市域が形成されている。(『島』の付く地名は、かつて付近一帶が干拓される以前は島だった名残である)
たしかに、親戚の人たちが「〇〇島の誰々」と言った会話をしているのを子どもの頃からよく耳にしていたのですが、地形まで連想することはありませんでした。
祖父の田んぼが干拓地だと知ったときに、謎がとけた感じです。
一昨年はその干拓地の中でも、児島湾干拓地と江戸時代からの干拓地周辺を歩いてみたのですが、知れば知るほど倉敷周辺は広大な干拓によってできた地域だということがわかりました。
今回はもっと倉敷の干拓地を歩いてみたいということと、その島々の間を埋め立てて広大な水田地帯にするためにかかせなかった高梁川の下流域も歩いてみたいという課題がありました。
*新倉敷と玉島*
一昨年、倉敷周辺の地図を頻繁に眺めるようになって、新倉敷駅の近くが「玉島」であることがはじめて繋がりました。そして、水島工業地帯が近いことも。
1975年に山陽新幹線が開通した時に「新倉敷駅」ができたのですが、倉敷の祖父母の家には岡山駅で下車して山陽本線に乗り換えて倉敷駅に行くことになるので不便でした。なんで新倉敷駅は倉敷駅に造らなかったのだろうという長年の漠然とした疑問をそのままにしていました。
2月下旬に再び倉敷周辺を訪ねるその直前に、「新幹線EX 」という雑誌を購入したのですが、「「新」な駅を訪ねる」という記事が偶然にも「新倉敷駅」でした。
駅の観光案内に「倉敷」という文字がないことについて、その記事に説明がありました。
ここは新倉敷駅のはずだが、「倉敷」の2文字がまったくもって出てこない。なぜか。
答えは歴史を見ればわかる。新倉敷駅が開業したのは1891(明治24)年 で、当時は玉島駅という名称だった。1967(昭和42)年に倉敷市と合併するまでは玉島市。
子どもの頃の記憶では「玉島市」がまったくなくて、大人の会話から推察すると、当時の大人にすると「倉敷市」になった行政的な感覚よりは、やはり瀬戸内海に浮かぶ島が地名で、その間が次第に干拓地となっていくのが地理感覚として強く日常的でもあったのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
ということで旅の最終日は、昔の島と島からできた干拓地を歩く計画です。
「米のあれこれ」まとめはこちら。