記憶についてのあれこれ 167 1950年代から80年代の日本で暮らした米国人

ワドル元艦長の公開書簡の以下の箇所から、いろいろと考えることが続いています。

私は米国人ですが、1959年5月20日青森県三沢市の米軍三沢基地で生まれました。日本で生まれたことは私の誇りです。私が生を受けた朝、私の肺には出生地の空気で満たされたのです。私は三沢市の自宅の隣人だった日本人家族の友人タマさんに面倒を見てもらいました。私が発した最初の言葉は日本語でした。27歳の時に富士山に登り、私が生を受けた国の素晴らしさに心から感動しました。9人が亡くなった日に、彼らと共に私の一部も死んでしまいました。私は事故で亡くなった方々やその家族を裏切ったと感じたのです。 

 

「この書簡は読者から私への共感や同情を求める意図を持って書くのではない」としつつ、生い立ちから日本への気持ちを表現されたことはなぜだろうと、まず考えていました。

 

 

元艦長とほぼ同年代なのですが、この一文を読んで、私が子どもの頃に米軍の家族と日本人とのこんな関わり方があったのかと、改めて知りました。

1960年代から70年代、私が過ごした地域で米軍関係者とバスで乗り合わせたり、街ですれ違うことが多かったのですが、緊張感とそしておそらく劣等感のような従属感のような複雑な気持ちが子どもながらにありました。

 

米軍関係者と家族ぐるみで親しくしているという話は、ほとんど聞いたことがない地域でした。

タマさんは家政婦さんでもなく、「隣人だった日本人家族の友人」と書かれています。どんな方で、どんな風なおつきあいだったのでしょうね。

 

 

1980年代になると、日本も背伸びをして先進国の仲間入りという雰囲気の時代に入りました。

 

元艦長が27歳で富士登山をされたその同じ頃、私は東南アジアでアメリカ人の友人ができました。

日本に滞在し、日本のカレーと枝豆が大好き だった彼女です。

今のように世界中から日本の「良さ」を求めて来る時代ではないので、日本に住んだことがあるアメリカ人というだけで珍しい存在でした。

 

この時にも私はまだまだアメリカに対するコンプレックスがあって、「インスタントカレーなんて恥ずかしい」と変に卑屈になっていました。

ところが、彼女はほんとうにすんなりと心に入ってきて、私といつでも対等に接してくれたのでした。

この経験があったので、タマさんとワドル氏のご家族との関係がこんな感じで気さくなものだったのかもしれないと想像したのでした。

 

きっと元艦長は日本の良き隣人だという思いが心からあったのだろう、それがほんとうにあの事故によって一部が死んでしまい、公開書簡に書かざるを得ないほどの思いがあったのだろうと、私の記憶と重なりました。

 

"アメリカ人は"と一口に言い切るような、そんな見方をしないことは大事ですが、でもこの文章から感じられる心の良さとか気の良さとでもいうのでしょうか、ああ、やはり「アメリカ人」だと思えたのでした。

 

どうか元艦長の心も癒されていきますように。

 

 

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