記録のあれこれ  32 福田歴史民俗資料館

昨年、 倉敷を回った時に、2日目のスタートは福田歴史民俗資料館でした。

 

行く前に地図を眺めていたら、私の祖父の田んぼがあった地域よりも離れた場所にも干拓地らしき場所があることに気づきました。水島工業地帯に近いので、比較的新しい干拓地なのだろうかと思いながら、地図を拡大していくと、そこに倉敷市の資料館があるのを見つけました。

倉敷市福田歴史民俗資料館を読むと、予想に反して、江戸時代に干拓が始まった場所でした。現住所の「古新田」からして、たしかに歴史がありそうですね。

 

福田古新田は、現在の倉敷市福田古新田に当たります。江戸時代はじめの頃のこのあたりは、高梁川の運んできた土砂が堆積して広い附洲を形成していました。享保元年(1716)、この附洲を干拓する計画が持ち上がりました。このとき、「高梁川下流に広い干拓地をつくると水はけが悪くなり、上流の村は困る」として、上流の村と5年にわたる争いがありました。その後、幕府の政策変更によって干拓が許可され、享保8年(1723)に着工、同9年(1724)に完成しました。同11年(1726)には検地を受けており、面積は200ヘクタールでした。工事の最終段階の汐止め作業では、二人の人柱がたてられたといわれています。樋の輪の地蔵様を刻んだ碑は、人柱になった人を供養したものです。

 

「二人の人柱」、その記録だけでも感情がかき乱されそうになりましたが、干拓の歴史を知るために行ってみようと思いました。

 

*記録になるまでにも時間が必要*

 

倉敷駅からバスで20数分ぐらいかかったでしょうか。市内をぐるぐると回っているうちに、海側へ向かっているのに両側には山が見えたり、想像していたより高低差があるので、少し方向感覚を失いそうでした。航空写真で確認すると、干拓前は島と島の間だったと思われる地域を抜けていたようです。

それが、もしかしたら「上流の水はけが悪くなる」という理由のひとつだったのかもしれないと、地図を見ながら想像しました。

 

バス停の目の前に資料館がありました。

中には、写真や資料、そして明治から昭和初期にかけて使われていた農機具などが展示されています。

 

私はもう少し詳細な年表や地図を期待していたのですが、それらしき展示はありませんでした。

ただ、その地域の一世紀ほどの写真集があったので、ゆっくりと見せていただき、この地域の変遷を少しイメージすることができました。

 

その資料館は70代前後でしょうか、女性がおひとりで対応されていらっしゃるようでした。

帰り際に、「毎日ホコリが積もらないようにお掃除したり、それだけなのですけれど、なんだかそれでいいのかしらと思うときもあって」とぼそりと話されました。

来館名簿を見ると、2〜3ヶ月も誰も来訪者が書かれていない時期もあるようです。

いつ来るかわからない人を待ち、この資料館に意味があるのか逡巡されていらっしゃったのでしょうか。

 

祖父の田んぼを思い出しているうちに、急に干拓地に関心が出てきたこと、干拓に関する資料や展示がどの地域でも少ないので、とても助かったことを伝えました。

 

後世の人がイメージで年表や展示物を作り出した場合、来訪者にはわかりやすくて良いかもしれませんが、それは本当にその時代のことだったかと後々検証しようとした時につじつまが合わないことにもなってしまうことでしょう。

つい、こちらもすぐに全体像がわかるような資料や展示を求めてしまいがちなのですが、年表という正確な記録を作り上げるのにも時間が必要なのだと思いました。

 

こうした資料館があり、長い年月をかけてその地域の歴史を正確に記録していくことが大事なのですね。

たとえ、来館者が途切れたとしても。

 

 

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