水のあれこれ 192 倉敷川

早朝の倉敷美観地区を歩こう と思いついたもうひとつの理由に、倉敷川を見ることがありました。

倉敷美観地区というと大原美術館とその前の河畔の柳がイメージにありますが、それが倉敷川です。

 

ほんの数年前までは、倉敷川について知っていることといえばそれくらいでした。

ブラタモリの「倉敷」の回で、この倉敷川が米の運搬などに使われる運河であったことを知りました。

地図では、大原美術館から北西へ30mほどのところで水色の線が無くなっています。

その時は「ああ、だから忽然と水色の線がないのか」と思いました。

 

しだいに岡山平野の干拓地が気になるようになって、この倉敷川をたどると児島湾の干拓地へと続いていることがわかりました。

ですから、6月下旬に児島湾干拓地を訪ねた時にも、タクシーの運転手さんに「千両街道を通って、倉敷川を渡って・・・」と説明したのですが、運転手さんは「倉敷川?」という反応でした。

倉敷川の上流が、あの大原美術館の前の川で」と、私の方がちょっと得意に説明したのでした。

 

ところが、説明したものの「倉敷川大原美術館の前からは暗渠になっているのだろうか」と気になり、それを確認したくなり翌朝歩いてみました。

倉敷川の「始まり」の場所には亀遊亭というレストランがあり、倉敷川の先は細い水路がその庭園へと続いているようでした。

 

その先はどこが水源なのでしょうか。

 

*「源流を持たない汐入川」*

 

Wikipedia倉敷川には、「水源 倉敷市本町」とあります。

大原美術館と亀遊亭は倉敷市中央町ですから、「倉敷市本町」はどこだろうと探すと、東側の駒形山のふもとのあたりのようです。

 

「概要」に倉敷川の歴史が書かれていました。

かつて倉敷は高梁川河口の干潟に面した港町であったが、江戸時代から周辺の新田開発により内陸の街になっていった。やがて新田開発により埋め立てられた干潟の僅かな残りの部分が入り江となり、海の潮の干潮にあわせて船が行き来する運河として機能し始めたのが倉敷川の始まりと云われている。

 

「汐入川」「舟入川」または「前神川」とも呼ばれ、昭和30年代初めまで舟による物資輸送が盛んに行われ、荷物を積み降ろす船溜りが美観地区より下流の入船橋付近にあった。しかし1959年(昭和34年)児島湾締切堤防が作られ、倉敷川は運河としての機能が失われ、一時期、市民の生活から離れた存在になった。また、川西町を通る倉敷用水を結んでいた新川が埋め立てられたことも追い討ちになり、源流を持たない汐入川であったため水質も悪化していった。

 

干拓地によって広がった場所には、源流を持たない川というものがあるのですね。

 

私が大原美術館に連れていってもらった頃は、水質が悪化し始めた時代だったようです。

 

 

*母の記憶の中の倉敷川を訪ねる*

 

もうひとつ、母の記憶を訪ねることも理由でした。

 

新型コロナウイルス感染拡大で母との面会ができなくなって1年半ほどになりますが、その最後の面会では母の記憶の場所をいろいろと話してくれました。まるで、今のうちに話しておかなければとも思えるようなタイミングでした。

 

その中に、倉敷川に母が落ちた話もありました。

母は高校時代に倉敷川のそばを自転車で通学していて、ある日、倉敷川に転落してずぶ濡れになったことがあったそうです。当時、美観地区のあたりに大きな材木屋さんがあって、そのお店の人が引き上げてくれて、制服が乾くように手伝ってくれたそうです。

終戦から数年ぐらいの頃でしょうか。

児島湾締切堤防ができる前、この辺りが運河だった頃はどんな風景だったのでしょうか。

 

私には美観地区の河畔のイメージしかないので、どうやったら倉敷川に落ちるのだろうとその時には笑って聞き流していたのですが、少しずつ倉敷川の歴史とともにその風景がつながってきました。

 

 

 

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