記憶についてのあれこれ 132 <「貧しくはなかった」>

50年に一度のレベルの水害からその地域が立ち直るには、どれくらいの時間が必要なのでしょうか。
おそらく50年どころか一世紀、二世紀とかけて作ってきた田畑や集落が、一晩の雨でなくなってしまうのが災害の恐ろしさですね。


祖父母や曾祖父母がいつ頃から倉敷で干拓事業に参加したのか、当時の様子を知りたくて検索しているのですが、公開されている資料はそれほど多くありませんでした。図書館や大型書店の農業や土木のコーナーを見ても、明治ごろからの干拓事業について歴史がまとめられたものがなかなか見つかりません。
いつか、倉敷の郷土資料館などを訪ねたいと思っています。


最初は単純に、干拓地や用水路の広がりや、どこから入植してきた人たちなのかといったルーツ探しのような関心だったのですが、母の一言から、俄然、当時の生活を知りたくなったのでした。


<「貧しくはなかった」>


7月の水害以降、母のところへ面会に行くたびに、祖父母の田んぼの歴史を聞き出そうとしています。
でも「忘れたわ」「どうだったかしら」と記憶が曖昧なことが多く、私が知りたいいつからそこに入植したのか、当時の生活はどうだったのかについてはあまり聞き出せないのです。
まあ、母は今、自身の老いと闘っているので、体のどこが痛い、何が辛いと言った不満をとにかく聞いて欲しいわけで、私の関心とすれ違うのも仕方がないのですけれど。


ある日、いつになく話がはずんで、南米への移民の話があったことや、母が子どもだった昭和10〜20年代には、祖父の田んぼではコメもできて経済的にも安定していたため船を借り切って瀬戸内海を家族で旅行したとか、九州や奈良にも汽車に乗って連れて行ってもらったといった話が出てきました。
あるいは、副業だった畳づくりのためのい草を刈る時期には、四国からたくさんの応援の人が集まってきたといった、干拓が軌道に乗った時期に母は子ども時代を送ったのだろうと思われる話をした後で、ぼそっと「貧しくはなかったのよ」と言いました。


親といえども、いえ、親だからこそ「この人はどういう人生を積み上げてきたのだろう」ということはなかなか見えないものです。
少々見栄っ張りで、以前の実家にはこんなに使わないのにと思うほどの服や物が溢れ、私が子どもの頃からなんでも人に自慢したがることが多かったのですが、その行動の深層にはその気持ちが強くあったのかもしれないと、ちょっとパズルの謎が解けていくようでした。


干拓地に入植することは最初は経済的にも大変だったでしょうし、もとからある周辺の集落との関係など、さまざまな意味で不安定な立場だったのだろうと思います。
母が子どもの頃にはすでに干拓地での祖父の農業は成功し安定していたとしても、子ども心に「干拓地に入植する」ということの社会的な意味を感じ取っていたのかもしれません。


今なお「貧しくはなかった」というひとことがまず出てくる母の人生を培った、干拓地の歴史をもっと知りたい。



そして今までいろいろな国の人から言われた私の国は貧しいからと対になった感情、それが母の「貧しくはなかった」になるのだろうと思えてきました。





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