8月初旬にひっそりと都内を散歩した記録の続きです。
私の散歩は、地図の水色の部分を眺めているうちに目的地が決まります。
計画ノートに書き留め、何度も眺めているうちにコースが出来上がっていきます。
都内の水色の池のような場所は、だいたい歩きました。「東京湧水せせらぎ散歩」に掲載されている場所も9割ぐらい訪ねた中で、あんがい近場でまだ行けていなかったのが実篤公園でした。
作家・武者小路実篤が昭和30年、70歳のときに、水のあるところ に住みたいという子供の頃からの願いを叶えて移り住み、晩年の20年間を過ごしたところ。邸宅裏のハケ裾から湧き出す水が上の池、下の池を満たし菖蒲園に注いでおり、上の池は底まで透き通っている。園内は湧水に加えて樹木や竹林が豊かに広がり、実篤が愛した自然をそのままに、武蔵野の面影を今に伝える。公園の下には作品や資料を展示する武者小路実篤記念館もある。
「水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いを叶えて」
もうこの一文だけで、惹き寄せられる場所でした。
*国分寺崖線沿いの入間川*
地図では実篤公園の近くに細い川が描かれていて、京王線の北側からその川が始まっています。この川に沿って、野川まで歩くことにしました。
京王線つつじヶ丘駅で降りて東へ甲州街道沿いに歩くと、じきに甲州街道が仙川駅方面へとぐんと上り坂になっている手前に川がありました。その上流は暗渠になっています。
気をつけていないと見過ごしてしまうような小さな川でした。
地図では名前がなかったのですが、「入間川」と表示板がありました。
入間川というと荒川水系の支流がまず浮かびますが、「入間」というのは川とのどのような関係を示す言葉なのでしょうか。
京王線で何度も通過したことのある場所で、「仙川があって、そこから小高くなってつつじヶ丘がある」と思い込んでいたのですが、実はその間に入間川がありもう少し複雑な地形でした。そして入間川の左岸が国分寺崖線だったようです。
京王線の小さな鉄橋下の左岸側は歩道がなく、一旦、右岸へと迂回しながらまた入間川を渡る必要がありました。
その線路脇の川沿いの斜面には小さな梨園があり、周囲の密集した住宅の中で半世紀ぐらい時が止まっているような風景です。
きっと浸水の歴史があるだろうと思わせる場所でした。
*実篤公園*
入間川に沿った道から2本ほど東側に離れた場所は、国分寺崖線の崖下のような場所になっていました。
2年前にお鷹の道から国分寺崖線沿いに野川公園まで歩いた風景と似ています。
鬱蒼とした森の一部が実篤公園になっていました。
ハケ下の豊かな水をたたえた池が広がっています。
同じことを考える人はいて、平日でしたがその日は10人ぐらいの方とすれ違いました。
*野川との合流部まで歩く*
実篤公園を過ぎると入間川は住宅街を通過するコンクリート製の水路の趣になり、そばを歩くことはできなくなりました。少し離れた場所を国分寺崖線沿いの道を歩くと、ところどころに森が残っています。
あと数百メートルほどで野川との合流部です。
左岸にはおそらく60年代から70年代頃に建ったと思われる都営住宅があり、その対岸は高くなっていて糟嶺(かすみね)神社がありました。農業の神様のようです。
おそらく半世紀ほど前は遊水池的な場所だったのだろうと思いながら、さらに新しい住宅が立ち並ぶ川沿いを歩くと野川に出ました。
野川では本流をビニール製の流路で片側に寄せるという大掛かりな工事をして、浚渫が行われていました。
国分寺崖線や周辺の小さな川からも相当な水が流れ込むので、こうした整備が欠かせないのですね。
武者小路実篤氏が住み始めた昭和30年代のこの辺りは、どんな風景だったのだろう。
想像がつかないなあと思いながら、野川に沿って歩き、喜多見駅から小田急線で帰りました。
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