ただひたすら川と海と干拓地を見る2日目は、7時12分発の「特急かもめ」に乗って諫早駅に向かいました。
7時前の佐賀駅は最初ほとんど人がいなかったのですが、高校生と通勤の人が次々とホームに集まりました。
行き先表示を見ると「区間快速門司港行き」とあり、佐賀と福岡は近いのですね。博多方面への「特急かもめ」は十数分おきにあるようで、通勤風の人の行列がいつの間にかできていました。
私が佐賀を訪ねた6月下旬は、佐賀県内の新型コロナウイルス患者数は連日ゼロとか一人二人だったのですが、駅では皆ちゃんとマスクをしていて、なんだかすごいなとちょっと感激しました。
私が乗る長崎行きの特急に乗る人は数人ぐらいだったでしょうか。
私の指定席は「1号車」だったので乗り込むと、なぜかグリーン車です。慌ててチケットを見直すと間違っていないのですが、このかもめは1号車の半分がグリーン車、半分が指定席でした。
こういうスタイルの列車もあるのですね、発車間際にちょっと焦りました。
*佐賀から肥前浜までの水田風景*
列車が走り出すと、そんなこともすぐ忘れて車窓の風景に釘付けです。
佐賀駅を出てすぐのまだ市街地や工場がある地区でも、クリークが残っているのが見えます。
鍋島駅を過ぎたあたりからは、一面の水田地帯の風景になりました。
ところどころに集落があって、一見、日本のあちこちでみられる水田地帯の美しい風景です。列車の車窓からはクリークはほとんど見えないのですが、前日に佐賀のクリークを歩いた記憶から「もしかするとそれが特徴かもしれない」と思ったことがあります。
それはクリークから広がっている干拓地は「大きな木や森がない」のではないかということです。
育たなかったのか、それとも木を植え森にする土地の余裕がなかったのか。
車窓の向こうに広がる広大な水田風景にも、ほとんど大きな木が見えませんでした。
多良岳が近づき、塩田川を越えるあたりでは、まだ代掻きが終わったばかりの田んぼの風景に変わってきました。「塩田川」という名前から、淡水を得難い地域だったのかと想像したのですが、Wikipediaの塩田川の「地理」を読むと、違うようです。
肥前国風土記には「潮高満川」と記され、塩田川の名はこれが転訛したものとされる。古くから有明海の満ち潮を利用した水運が活発に行われ、現在の塩田地区には塩田津と呼ばれる港があった。江戸時代には有田焼の原料となる陶石を天草地方から運び込む拠点となった他、農産物や塩田で焼かれた志田焼も多く取り扱われた。
それぞれの地域や川の歴史、興味が尽きませんね。
車窓からの風景では見えていることなんて、ほんとわずかです。
*肥前浜から諫早へ*
肥前浜のあたりで干拓地と思われる水田の風景は終わり、列車は海に突出した山を削ったようなギリギリの場所を通過する風景が増えました。険しい場所が多いのに、沿線にはわずかの場所に水田がつくられて田植えが終わっていました。
単線なので、特急同士の通過まちもありました。
車窓から見える有明海は対岸が見えないほど大きい湾なのですが、まるで湖のような静けさです。
最初は頂上に雲がかかっていたのですが、しだいに雲仙岳の中腹ぐらいまで見えるようになってきました。美しい山です。
1991年5月の雲仙岳の噴火のニュースの映像は、同じく6月にフィリピンのピナツボ火山の噴火によって日本が冷夏になり1993年には米不足になったこととあわせて記憶に強く残っています。
雲仙岳は、佐賀とこんなに近かったのですね。
干拓地の締め切り堤防が見え、しばらく海岸沿いに平地がある地域を過ぎると、地図で想像していたような風景とは違い、しだいに切り立つような場所に家々が建つ風景になって諫早駅に到着しました。
諫早駅は真新しい駅で、その手前から高架橋の新しい線路が見えました。
そういえば最近、西九州新幹線の名前が「かもめ」だというニュースがありました。ということは特急かもめの車窓からの風景は、もうじき見られなくなるのでしょうか。全国あちこちの鉄道存続についてのその時代の葛藤には答えがないですね。
佐賀駅から特急かもめからの一時間の車窓の風景は、広々とした干拓地の水田から海沿いの崖のような場所へと目まぐるしく変化していきました。
あの外房に似て大きな河川がほとんどない地域では、どのように水を得ているのでしょう。
同じ有明海に面した隣り合った街でも、地形が違うと雰囲気はだいぶ違いました。
2日目の午前中は、佐賀ともまた違う干拓地を訪ねます。
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