水のあれこれ 183 筑後川とデ・レイケ導流堤

いつか筑後川も見てみたいと思っていましたが、計画の段階で地図を眺めていると、下流部分の複雑な流れと地形に引き込まれました。

右岸側から佐賀江川が流れ込むのですが、その少し上流で大中島を挟んで筑後川は二手に分かれています。

どちらも「筑後川」と地図では表示されています。

 

そして大中島から昇開橋のあたりはまた1本の筑後川ですが、じきに大野島を挟んで二手に流れが分かれます。

また「二つの筑後川」かと思ったら、佐賀側の流れは「早津江川(はやつえかわ)」で、筑後川と分かれてそれぞれ有明海に流れ込んでいます。

 

おもしろいなあ、どこまでがいつ頃の干拓地で、どんな歴史があったのだろうと地図を拡大したり縮小してなんども眺めているうちに、ふと、その大野島と筑後川の間に堤のようなものが描かれているのに気づきました。

 

佐賀市観光協会のサイトで、偶然、それが「デ・レーケ導流堤(デ・レイケ導流堤)」であることを出発の直前になって知ったのでした。

干潮の時だけ見られます。 

明治期にオランダ人技術者ヨハニス・デ・レイケによって築かれた導流堤。全長は6kmにも及び、水流によって土砂の堆積を防ぐ仕組みとなっています。干潮になると、石畳がはるか遠くまで続きます。

 

なんと、ここでデ・レーケの名前に遭遇するとは。これは絶対に行こうと、直前になって大幅に計画を変更したのでした。

 

 

*デ・レイケ導流堤を見に行く*

 

大川橋バス停で降り、筑後川左岸の堤防沿いへと向かいました。堤防に上ると、北側の背振山地だけでなく、南側に遠く、雲仙岳が見えました。ゆったりと流れる筑後川下流の風景は、なんとも美しいものでした。

 

事前に読んだ情報は上記の佐賀観光協会のものだけだったのですが、とりあえず近くまで行ってみようと堤防を歩くと、「導流堤が支えた筑後川若津港近代化遺産案内」という説明版がありました。

「若津〜東京線就航式の様子[明治30年(1897年)]というセピア色の写真があり、「若津丸(明治23年築造)」、「佐賀丸(明治31年築造)」と2隻の汽船とその周囲に荷物を運ぶ小さな船が集まっている様子が写っていました。

 

ここから東京行きの汽船が出ていたのですね。その90年後には飛行機で長崎まで行けるようになり、130年後にはのぞみと在来線特急で6時間ほどで佐賀まで行けるようになりましたし、佐賀空港もあります。

 

当時はこの辺りは造船所もあり、また「明治期、若津港は九州最大の米を中心とした物流拠点」だったそうです。

 

少し離れた場所に、半円形の石積みの導流堤の模型が展示されていました。

デ・レイケ導流(若津港導流堤)とは

 

 ここに展示している石積みは、明治23年(1890)に石黒五十二(いそじ)技師らによって造られた土木構造物です。実物は筑後川の中にあり、干潮時にその姿を見せています。このデ・レイケ導流堤は、明治維新以降に船舶が大型化するにともない、筑後川の若津港にも大型船が入港できるようにすることを目的とし、筑後川の流れを制御し自然の力で川底に溜まる土砂を有明海に流して、航路を確保するために設けられました。

 なお、デ・レイケ導流堤は、筑後川の河口から早津江川(はやつえがわ)の分派点近くまでの約6.5kmに渡って築かれており、筑後川の近代河川計画を検討したオランダ人技師であるヨハニス・デ・レイケの名称を当てて、現在では通称「デ・レイケ導流堤」と呼ばれています。正式名称は、若津港導流堤です。

 

 デ・レイケ導流堤の構造

  本体の石積みは、長崎県諫早市の小長井(こながい)地域から船で運んだ石をアーチ状に積み上げたもので、日本の石積み技術を用いています。一方、基礎部は、オランダ人技術者らが持ち込んだ粗朶沈床(そだちんしょう)の技術が使われています。

 粗朶沈床は、軟弱地盤の低地が広がるオランダで用いられていた技術で、雑木の枝を束ねて一定の大きさ(高1m×幅3m×長8m以上)に組み上げ、工事現場まで曳航し沈める工法です。

 雑木の枝や草などを土木構造物の基礎などに利用する技術は以前から日本にもありましたが、オランダから持ち込んだ技術は、川の中での工事に役立ち、長大なデ・レイケ導流堤の工事を短期間で完成させることに大きく貢献したと考えられます。

 

当時の姿を残す価値ある土木事業

 明治期にオランダ人技師が関わった同様の土木構築物(突堤・導流堤)のうち、明治15年(1882年)に完成した野蒜(のびる)港突堤宮城県)は、明治17年の台風で崩壊し、現在はその姿が残っていません。また明治15年に造られた三国港突堤福井県)や明治23年完成の木曽川導流堤(三重県)は、粗朶沈床を用いるなどデ・レイケ導流堤と類似した構造ですが、現在ではコンクリートに覆われて当時の姿を見ることができません。

 この点、デ・レイケ導流堤は、築造当時の姿を残すとともに、今回の解体調査により構造がわかったことなどから、価値ある土木遺産として位置づけられます。

 

訪ねた時には、導流堤の北端に生えている葦でしょうか、まるで浅瀬が見えているかのように少しだけ見えました。

そこから6km以上もこんな導流堤が川の中にあるなんて想像もできません。

 

これまでもあちこちで耳にしたヨハニス・デ・レーケの名前に、今回の散歩でも出会うとは。

明治時代に驚異的に変化した時代はどんな雰囲気だったのでしょう。

一世紀という長さは不思議で、知らないことばかりです。

 

 

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