水のあれこれ 185 諫早大水害と本明川

今回の遠出に出かけるまさに直前に、テレビで偶然「さだまさしさんは諫早大水害を経験している」というような話を耳にしました。

これから訪ねる場所に、そのような大きな災害があったことを初めて知りました。

 

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957年7月25日から7月28日にかけて長崎県諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。 

 

概要 

1957年(昭和32年)7月24日、梅雨前線が関東沖から九州南部、黄海南部に南下、25日午前には前線上の黄海南部に低気圧が発生し東に進みながら前線が北上、済州島から九州西部にかけて雷を伴った強い雨が降った。諫早市では正午以降雨脚が強まり、25日から26日にかけ大村市島原市、対岸の熊本県の北部を結ぶ細長い帯状の地域に豪雨が集中した。

 

雲仙岳の北斜面にあたる南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の農林省雨量計では、日降水量が当時の日本記録である1109mmを記録したが南へ約20km離れた島原半島南端の南高来郡口之津町(現・南島原市)では日降水量がわずか86mmと1000mm以上の差があり、典型的な局地的豪雨であった。このころは集中豪雨や線状降水帯といった用語がまだ一般には定着していなかった。

 

諫早市では、市内中心部を流れる本明川が氾濫し上流で発生した土石流が市内を襲った。さらに江戸時代にかけられた石橋の眼鏡橋はその頑丈さゆえに、流木や瓦礫をせき止め市街地への被害を拡大させた。死者・行方不明者は諫早市の586人など、長崎県内で782人に達しており、また対岸の熊本県でも死者・行方不明者が160人を越えた。なお、当時の長崎日日新聞では「一瞬、推定3千名の生命奪わる」という文字が一面を飾った。

Wikipedia「諫早豪雨」より)

 

その数年後に生まれた私には、水害が激減した時代に入ったを改めて思い出させる内容でした。

 

本明川と東大川*

 

散歩の計画の段階では、諫早市に一泊して周辺を歩いてみようという計画もいくつかありました。「締め切り堤防の上を歩いて、ぐるりと諫早市内へと戻る」という計画も立ててみましたが、あまりに気が大きすぎました。堤防だけで8kmはあるようですから。

 

もう一つは、諫早駅の東側を流れる本明川沿いに歩くという計画もありました。

諫早市内を南下し、途中で東へと流れを変えて有明海に注いでいる川で、おそらくこの川が干拓地の水源です。上流は、と地図をたどると細い水色の線が北側へと数キロほど続いたところで終わっています。

 

また、隣の西諫早駅から東大川沿いに「津水町」という二つの川が合流している場所まで歩くという計画もありました。「津水」、どんな地形から来た地名なのか見てみたいと思いました。

そしてこの本明川と東大川は場所によっては数百メートルしか離れていないのに、一方は有明海へ、もう一方は大村湾へと注いでいますから、諫早市の中心部のどこかが分水嶺のようです。

 

長くない川が近くにあり、それぞれ別の海に注いでいるとなれば、相当急峻な地形だと想像できましたが、水害のことまでは考えていませんでした。

 

 

そのいずれの計画も時間がとても足りないので断念しましたが、島原鉄道の車窓から見えた本明川は、水量もそれほど多くなくて緩やかに市内を流れているように見えました。

Wikipedia本明川では、昔は「大川(うーかわ)」と呼ばれていたそうです。

多良山系の南にある五家原岳(標高1,058m)南西麓を水源とする。上流部は山麓に深い谷を刻み、急斜面を南西に流れ下りる。南に向きを帰ると斜面は穏やかになり、富川・湯野尾川・目代川などの支流が次々と合流する。

 

諫早市内では天満町・宇部町で東に向きを変え、諫早市内の中心部を穏やかに流れる。

 

上流部はJR大村線に沿ってしばらく流れるのですが、大村線に乗った時には海岸線を見ることに集中していたので、山側がどんな風景だったのか見ることができませんでした。

 

わずか全長28kmの川が一気にあの高原のような諫早駅周辺まで流れてきて、そこから今度は穏やかに流れを変える。

それが「排水不良」の一因となることが書かれています。

上流域の急流に対して中・下流域は流れが穏やかになり、多くの支流が狭い地域に集まるため排水不良になりやすい。江戸期・寛永年間からしばしば洪水の記録があり、元禄12年(1699年)の元禄水害では死者487人を出し、現在の宇部町・天満町付近にあった諫早の集落が現在の位置へ移動することになった。また、富川渓谷の五百羅漢像は死者供養と災害防止祈願のために伊佐早茂晴の命により宝永6年(1706年)に作られたものである。 

 

 

天満町は本明川左岸で、現在の諫早駅の対岸に当たります。江戸時代に高台へと移り、そして昭和32年には諫早大水害でまた市内が被害を受けた歴史があったようです。

 

 

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