行間を読む 123 児島湾の「明治時代から昭和にかけての干拓」

長い時間をかけて児島から児島半島になり、その児島湾をさらに明治時代から干拓が行われたことが「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」(農林水産省 中国四国農政局 岡山南土地改良建設事業所)に書かれています。

 

明治から昭和にかけての干拓

 

 明治時代に入ると、これまでお殿様に使えていた武士の人たちが仕事を失ったため、こうした人たちが農業で生活できるように児島湾の干拓が行われました。

 政府はオランダ人のムルデルに児島湾を干拓できるかどうか調査を依頼し、ムルデルは児島湾を8つの区に分けた干拓の計画をとりまとめました。

 しかし、実際に工事するには多くのお金が必要となり、なかなか工事が開始されませんでした。

 そうした中、大阪の大富豪「藤田伝三郎」に工事をお願いし、伝三郎は自分のお金を出して工事を開始しました。

 当時はコンクリートも無い時代で、大きな石や木の枝などを使って堤防の土台をつくり、その上に土や石を積み上げ堤防を築いていきました。しかし、児島湾は底なしのような海で、堤防ができあがるとその重みで海の中に沈んでしまう大変難しい工事でした。

 その後、昭和23年に国(農林省)が工事を引きつぎ、昭和38年にすべての干拓事業が完成し、約5,000haの農地ができあがりました。

 工事が完成したばかりの干拓地は、土地の中に塩が混ざっていて、お米を作るのに大変苦労をしました。塩分を抜くために田んぼの中に溝を掘ったり、用水路をつくったりして、農業ができる環境を整えていきました。

 また、飲み水や生活に使う水は、井戸を掘っても塩水ができるため、溜めた雨水をろ過して使ったり、干拓地の外の村まで水をもらいに行っていました。今、児島湖の周りに広がる田んぼや畑は、昔の人たちの苦労や努力によってできた土地なのです。

 

児島湾干拓資料室でもらってきたパンフレットに「児島湾締切堤防の耐震化対策」があり、児島湖干拓堤防に被害をもたらすおそれの高い南海トラフ地震に対応できるように、令和元年度から令和12年度にかけて樋門・閘門そして締切堤防の耐震化工事が行われていることが書かれていました。

 

19世紀末のコンクリートが無い時代は「児島湾は底なしのような海で、堤防ができあがるとその重みで海の中に沈んでしまうという大変難しい工事」であったものが、半世紀後には締切堤防がつくられ、さらに数十年後には耐震化工事が行われるようになったのですから、やはり干拓事業も驚異的に変化する時代ですね。

 

そのパンフレットによれば、現在干拓地は「岡山市の農業の中心をなす穀倉地帯が形成されており、近年では水稲を中心として二条大麦のほか、施設なす、玉ねぎ、レタス、れんこんといった多様な高収益作物の栽培が展開されている」ようです。

 

 

それにしても子どもの頃は、祖父母の家に遊びに行くと岡山は平野が広がっていて広々した土地だと感じていたのですが、最近、もしかして「岡山」というのはほとんど岡と山しかなかったからではないかと思いつきました。

干拓の歴史を知るにしたがって確信に近いものになってきましたが、どうなのでしょうか。

 

 

 

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