散歩をする 422 真冬の倉敷川沿いに源平合戦藤戸古戦場跡へ

倉敷の祖父母の家に遊びに行った数少ない記憶では、いつも夏休みの稲穂が広がる風景か冬休みの茶色い水田の風景だったので違う季節を見てみたいという思いが強くなり、2018年には11月の晩秋に、2021年6月下旬には念願の田植えの季節の風景そして昨年3月には早春の風景を見ることができました。

 

今回の散歩は1月中旬なので、経験済みの季節です。

子どもの頃は父の転勤で寒冷地に暮らしたので、「倉敷の冬は暖かい」という記憶しかありません。昔の開放的な農家の造りでしたが、暖房といえば時々石油ストーブを使うくらいだったと思います。

 

ところが天気予報を見て驚きました。「最低気温マイナス2℃」という日が続いていて都内よりもよっぽど寒いようです。温暖化でこの気温なら、半世紀前はどれくらい寒かったのでしょうか。

真冬の倉敷の天候はどんな感じなのか、確認の散歩になりそうです。

 

*早朝の倉敷川沿いにかじかみながら歩く*

 

散歩の3日目、まだ日の出前の6時45分にホテルを出て美観地区へと向かいました。

歩いているうちに体は温まってきましたが、手袋をしても手がかじかんできます。

うっすらと東の空が明るくなってきた頃、ほとんど誰も歩くことのない倉敷美観地区は静寂そのもので、美しさがより引き立つようです。

 

この日は倉敷川に沿って倉敷商業高校東バス停のあたりまで数百メートルを歩き、そこからバスで倉敷川沿いに天城中学・高校南入り口バス停で下車する予定です。

そのバス停の近くに「源平合戦藤戸古戦場跡」とあり、干拓以前は海岸だったのだろうと思われる場所を見てみようという計画です。

 

少しずつ空が明るくなるにつれて、美観地区のランプの灯りが消えていきました。

倉敷川の澄んだ水面を見ながら歩くと、美観地区が終わる白壁通りと交差するところに古い水門がありました。どんな目的の水門だったのでしょう。

 

ここからは左手は「向山」という山側に沿って住宅や小さい工場が続き、倉敷川の右岸にはバス通りがまっすぐ続いています。地名は「船倉」で、やはり倉敷川は運河だったのですね。

高校生だった母が自転車ごと川に落ちて近くの製材所の人に助けてもらったというのは、きっとこの辺りだろうと思いながら歩きました。

 

以前は人が亡くなると次第に記憶から薄れていくものかと思っていたのですが、最近はことあるごとに両親のことを思い出しながら亡き人と会話をしている感じです。

 

倉敷川沿いには古い石積みの取水口のような場所が残っていたり、そばにお地蔵さんが立っていたり、時間が止まったような場所もあります。

川沿いに「下水道に接続しましょう」と啓蒙用の表示がありました。

母と同じくらいの女性が、手押し車を押しながらゆっくり歩いてお地蔵さんの前で何かお祈りしていました。

どんな人生を歩まれて、どんな生活をしていらっしゃるのでしょう。

 

バス停に予定よりも早く7時9分につきました。まだ20分ぐらいあるので、もう少し倉敷川沿いに先のバス停まで歩くことにしました。

車のフロントガラスや地面が霜で真っ白です。

倉敷の冬はこんなにも寒いのですね。iPhoneで写真を撮ったりメモをするたびに手袋をはずしていたら、本当に手がかじかみました。歩いていないと凍ってしまいそうです。

 

倉敷川沿いに遊歩道が整備されて広々としてきました。この先は「新田」という地名です。

遠くに見える山々はその昔は島で、遠浅の海が広がっていたのでしょう。

倉敷市役所東バス停から児島行きのバスに乗りました。3人ほど乗客がいましたが、気づいたら一人になりました。

まっすぐだった倉敷川が蛇行し、川から離れたり近づいたりしながら水田地帯を走ります。どこまでも平らです。

 

川合が見えてきました。

右岸から吉岡川が合流する場所は、今までの平地が続く風景とは違い両側から小高い場所が迫るような場所ですが、住所は「東粒浦」ですからかつては島にはさまれた海岸のような場所だったのでしょうか。

 

 

源平合戦藤戸古戦場跡*

 

倉敷川の川幅が広がり、その先の藤戸大橋を越えたところで7時41分、バスを降りました。

 

少しきた道を戻った交差点に、藤戸合戦の大きな石碑がありました。

源平藤戸合戦略記

 

 寿永三年(一一八四)旧暦十二月(東鑑あずまかがみ)源頼朝の命により 平氏討伐の為西下範頼の率いる源氏は 日間山一帯に布陣し 海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた 平行盛を主将とする平氏と対峙したが 源氏には水軍が無かつたので 渡海出来ず 平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対しても たゞ切歯扼腕悔しがるだけであった 時に源氏の武将 佐々木盛綱 かねてより「先陣の功名」を念かけており 苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し 夜半 男を伴なつて厳寒の海に入つて瀬踏みをし 目印に笹を立てさせたが 他言を封じるため その場で浦男を殺し海に流した 翌朝盛綱は 家の子・郎黨を従え 乗り出し岩の処より海へ馬を乗り入れ 驚く味方将兵の騒ぎを尻目に 天将範朝の制止にも耳を藉さず 目印の笹をたよりに まつしぐらに海峡を乗り渡り 先陣庵のあたりに上陸し 大音声に先陣の名乗をあげるや 敵陣めがけて突入し 源氏大勝の端を開いた 盛綱は此の戦功により 頼朝より 絶賛の感状と児島を領地として賜つた 海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に 之を敢行した盛綱の壮挙は 一世を驚嘆させ 永く後世に名声を伝えられる事となつた

 

真冬の早朝にこれを読んだので、まず「厳冬の海に入った」こととやはりこの辺りは海だったことが印象深く残ったのですが、よくよく読むと地の利を教えた地元の人を殺害して手柄を得たという、立ちすくむような話ですね。

それでも手柄の話にせず、「他言を封じるため浦男を殺し海に流した」こともちゃんと後世に残ってきたのですから、どんな記録の伝わり方があったのでしょうか。

 

ここからは藤戸町を通って、水田地帯へと向かいます。

 

 

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