散歩をする 423 藤戸から茶屋町へ

散歩の二日目の目的である倉敷川沿いの風景を見ることは達成されました。

やはりどこも、遠浅の海に島がぽつりぽつりとあったことを感じさせますね。

 

次にその遠浅の海を少しずつ干拓した場所である早島に向かうために、かつては海岸沿いだっただろうと思われる藤戸の街を歩いて、水田地帯にある茶屋町駅まで歩く計画です。

地図を見て想像していた通り小さい山があり、ここもかつては小さな島だったのでしょうか、そのふもとを蛇行しながら倉敷川が流れていてその左岸側に藤戸町があります。

 

朝の川霧が少し残り倉敷川の水面が朝日に輝き始めてまぶしい中、鮮やかな赤い欄干の橋の向こうに古い街並みがある風景は幻想的でもあり、歴史へと誘われるような雰囲気です。

 

橋のたもとに「盛綱橋の歴史」の説明がありました。

 今見る藤戸・天城の山丘はかつては藤戸海峡に浮かぶ島であった。

 その後、次第に開発されかつて海の姿は消え、わずかに南北に流れる倉敷川が藤戸海峡のなごりをとどめているのみである。

 この橋の上流一帯が「平家物語」や謡曲「藤戸」で知られている、源氏の「佐々木綱盛」が渡海先陣で功名を挙げた、源平藤戸合戦の古戦場跡で多くの伝説・史跡を今に伝えている。

 江戸時代、寛永十六年(1639)岡山藩家老「池田由成」が天城に居館を築き、士屋敷を中心に町づくりを行い、「かち渡り」や「渡し」であった藤戸・天城の間に、正保四年(1647)に藤戸大橋・小橋を架け交通の便をはかった。以降、岡山城下栄町を起点として妹尾・早島・林・児島・下津井に至る「四国街道」の往来を容易にし、江戸時代後半には、金毘羅参詣の信仰の高まりと共に参詣の人々がこの橋を往来した。また、倉敷川に架かる藤戸大橋の周辺は、川湊として近隣農村部の物資の集積地となり、おおいににぎわった。

 交通機関の発達と道路網の整備に伴い、藤戸大橋の架け替えが必要となり、大正十四年架橋工事を始め、同十五年四月にトラス橋が完成した。

 多くの橋名の案が出されたが、「佐々木綱盛」藤戸渡海先人のいわれにちなみ、時の県知事によって「盛綱橋」と命名された。

 多くの人々になじみ親しまれ、風雪に耐えた「盛綱橋」も老朽化し、昭和の時代が終わると共にその役割を終えたのである。

 平成元年総工費1億円を懸け二代目「盛綱橋」の誕生を見たのである。

 歴史の流れを伝えんとして、橋上に八百年の昔、馬上姿で藤戸大橋を波切って渡る「佐々木盛綱」の銅像を造り架橋記念とした。

      平成四年七月

 

かつては歴史を暗記したり人物関係を覚えることが苦手だった私ですが、川に架かる橋をたどると歴史への興味が次々と広がります。

 

地図で確認すると、この辺りの倉敷川の両岸は現在も「藤戸」という地名のようです。

そしてその橋の案内図に書かれていた地図によれば、倉敷川右岸のJR瀬戸大橋線に挟まれた地域に「大浜」という地名が書かれていました。

本当にかつては海のそばだったようです。

そして時代を経て四国へとつながる道として栄えた。こういうことは実際にこの場所を訪れてみないとわからないものですね。

 

低い山に沿って緩やかに曲がる道に沿って、祖父母の家のあたりを思い出すような木の格子戸が残る家々が続き、ところどころ新しい住宅に置き換わっています。

朝8時ごろ、誰ともすれ違うことのない静かな道を歩くと、「中国自然歩道」の標識がありました。

さらに山裾に沿って北へと歩くと、その向こうの一段低い場所に水田地帯が広がる風景が見えました。

 

2018年に初めて岡山平野の干拓地を歩き始めた時に彦崎駅から明治時代の干拓地の跡を訪ね、そのあと宇野線岡山駅まで戻る時にこの辺りを通過したのでした。

あの頃は中世以降の長い歴史と広大すぎる干拓地のどこをどう歩けば良いか、なにを見たら良いのかも全く手探りでしたが、少しずつこうしてそれぞれの地域を歩いて道端にある案内図を読むことで全体像が朧げながら見えてきました。

 

*水田地帯を茶屋町駅まで歩く*

 

水田地帯へと下り坂を降りると倉敷川の左岸側からの六間川との川合が見え、その橋の周辺が公園になっていました。この辺りになると、けっこうな人が川沿いを散歩したりジョギングしています。

その鶴崎公園の間にある道は、ここからしばらくまっすぐ水田のそばを通っていて農道でもあるようです。

野焼きのかぐわしい香りが漂ってきました。

 

桜並木のこの時期は美しい水仙が咲いていて、ところどころ休めるようにベンチもあります。水田や水路、そして少し離れたところを通過する瀬戸大橋線の列車を眺められるうらやましい道でした。

 

水田には霜が下りています。そうそう、冬休みに倉敷の祖父母の家に泊まったときにも霜を見た記憶があるので、やはり寒かったのでしょうね。

 

途中、水路のそばに「備前・備中 国境の境界石」という案内票がありました。見渡してもどれがその石なのかよくわからなかったのですが、「備前・備中」の境界線が今も感じられているのでしょうか。

 

網の目のように張り巡らされた水路の遠いところに、石碑があるのが見えました。開拓記念碑でしょうか。見てみたかったのですが時間がなくて先を急ぎました。

ところでこのあたりの水路はどこが水源だろう、六間川はどこから来ているのだろうとたどってみたのですが、岡山駅から倉敷駅のあたりまで広大な水田地帯を網羅している水路はどのように水を得ているのか地図ではよくわかりません。

干拓地のような低地で、隅々まで過不足なく水を行き渡らせるのはどんな技術なのでしょう。

歩けば歩くほど、また知りたいことが増えていきますね。

 

まっすぐの道ですが、水田の中の道は飽きることがありません。

右手からのJR宇野線瀬戸大橋線の高架橋が近づき、茶屋町に到着しました。

その手前に高架橋になる前の古いホームでしょうか、ポツンと残っていました。

 

茶屋町干拓三百年*

 

茶屋町子どもの頃から時々耳にしていた地名で、2018年に初めて列車で通過したときには水田よりも住宅地が印象に残りました。

ですから今回は茶屋町を歩く計画はなかったのですが、駅前の「茶屋町干拓三百年 温故知新」という石碑と案内図に釘付けになりました。

 

 1770年、宝永4年に干拓が完成し、今300年の節目を迎えました。

 この町は先人たちの努力によって著しく発展しています。この地に生まれ、郷土と共に育ち、今を生きる私たちは、この事業を記念して、200年の碑に刻まれた思いを深く受け継ぎ、多くの人々の浄財を得て、この碑を建てました。

 温故知新、今の茶屋町を100年後の人々に託すと共に、さらに100年後の人々へ伝えてくれることを願います。

 

平成18年11月12日  茶屋町干拓300年記念事業実行委員会

 

石碑のそばには「児島湾干拓と児島湾締切堤防」の大きな地図があり、その西端に位置する茶屋町は「海抜0~1m」であること、そして先ほど歩いた水田地帯の途中に「江戸時代以降の干拓地」の境界線があることが描かれていました。

 

自分が暮らす土地はどのような土地かを駅前で知ることができるなんて何と素晴らしいことでしょうか。

 

そして11年前に私がブログを書き始めた頃から意識していた一世紀の意味古い時代のことが新しく感じる感覚について、駅前の石碑でつながるとは。

 

茶屋町、今度は歩いてみたいものですね。

 

 

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