姫路の男山配水場までの水道の流れを歩き、揖保川のそばを歩くことができました。
今回の散歩の「それまでにいけなかった場所をみる」という目的がほぼ達成されました。
計画の段階では2日目にどこに泊まって3日目にどこをまわるか白紙の状態でしたから、地図を前に何日も考えました。
そうだ相生で下車して、まだ全てを乗ったことのない赤穂線に乗ろうという大まかな計画ができました。
*子どもの頃から耳にしていた地名*
相生は、倉敷の祖父母の家に行く途中で耳にしていた地名でした。おそらく「あいおい」という名前が子ども心にも面白く、また覚えやすかったのかもしれません。
それ以降、何度、相生を素通りしたことでしょう。
どんな街なのか歩いて見たいと思いました。
地図を見ると、深い入り江が途中でさらにくの字に曲がって、駅前の近くまであります。
「海に面している」というのか、いないのか。
そして、「大島」の周辺が干拓か埋め立てされたかのような場所に見えました。
そこから相生駅までの川をたどると途中で分岐し、なんと相生駅の真ん中に川が流れ、駅を挟むように数本の流れが山から流れています。
急峻な場所を川が流れて入り江を通り、瀬戸内海に流れ込んでいる地形が目に浮かびました。
ここを歩きたい。
しかも新幹線の停車駅がありますからホテルからも新幹線が見え、街を歩いていれば通過する新幹線を見ることもできます。
ここに宿泊することにしました。
*相生(あいおい)の由来*
散歩を記録をまとめながら、今さらながら地名の由来が気になりました。
「あいおい」で検索したら、Wikipediaのこんな説明がありました。
相生(あいおい、そうしょう、そうせい)
・2本以上の木が同じ根から生えていること、特に相生の松。
・転じて、夫婦が仲睦まじいこと。また、「相老」とかけて、夫婦が共に長生きすること。
「そうしょう、そうせい」という読み方もあるのですね。知らない日本語がありすぎです。
あの川が合わさって入り江に流れ込むから「相生」なのかと相生市名の由来を読んだら、全く違っていました。
大嶋城の城主となった海老名市が相模国(現在の神奈川県海老名市)の出自であることから、海=浦名として呼ばれていた「おお」に相模生まれの漢字を宛てたのが「相生」の由来であるという説が有力である。
地名ひとつにも、深い歴史がありますね。
小さい頃から「相生」というと、大人の会話から知識を得たのか学校で習ったのか記憶は曖昧ですが、なんとなく造船所のイメージがありました。
その歴史も、Wikipediaに書かれていました。
造船業の町
明治期までは瀬戸内海に面した典型的な漁村であった。明治終期に、船の建造・修理のための施設「船渠」(ドック)が完成した。住民らは「わしらのドック」と呼び、誇りにした。以来、造船業は相生の看板産業として発達し、昭和30年代に年間の進水量で世界首位にたった。播磨造船所、石川島播磨重工業など造船会社名は変遷を繰り返し、現在はJMUアムテックがドックを構える。第二次世界大戦後、大型船の新造が禁止され、一旦は町のともし火が消えかかったが、1951年10月18日の捕鯨船団の母船「図南(となん)丸」の進水式をきっかけに再び造船の町として歩み始めた。図南丸は、戦争末期、米軍の爆撃を受け、南太平洋の海底40メートルに沈没。眠っていたものを播磨造船所が引き揚げに成功し、ドックでの改修を担ったものであった。沈没した第三図南丸には完全な図面が残っておらず、実測で図面をそろえるなどした上、連日2000人越が昼夜を問わぬ突貫工事に充事し、クレーンの争奪戦が起こるほど現場は熱気にあふれていたという。播磨造船所の年間売り上げの約半分を要したこの大事業での技術力は、国内外で高く評価され、「図南丸」と改名され、1970年まで日本の捕鯨を支えた。
「第二次世界大戦後、大型船の新造が禁止され」という行間にもまた、途方もなく多くの史実があることでしょう。
沈没していた船を引き上げ、そして捕鯨船に造り直したその熱意はどこから来たのか。
それは「タンパク質が足りないよ」という戦後の食糧難であり栄養失調児の親もまた栄養不足であるという、社会に食べるものがない状況が稀有になった現代ではなかなか理解できないことかもしれませんね。
もしかしたら私の両親世代から、あの時代の危機を乗り越えたという安堵感と誇りともに「相生は造船の町」という話を聞いたような気がしてきました。
「赤穂(あこう)」もまた親か親戚の話の中から知った地名だと思うのですが、牛窓を訪ねるのにおととし初めて赤穂線に乗りました。
全線に乗って、どんな場所なのか見てみたい。
ということで、3日目の計画ができたのでした。
「散歩をする」まとめはこちら。