行間を読む 143 「戦死者を並べてとりでにするような戦い」

昨年6月に佐賀のクリークと筑後川を訪ねたときに、デ・レイケ導流堤を見てから筑後川昇開橋を渡って福岡側から佐賀へと戻る計画を立てていました。現地に行ってみると昇開橋は歩いて渡れないことがわかり予定を変更して大川市を歩き、バスで佐賀市内へと戻りました。

 

昇開橋の下流1.5kmほどの佐賀側に、佐野常民記念館があります。

看護学生の頃にアンリー・デュナンと共に知ったその名前を地図で見つけてぜひ訪ねてみたいと思っていましたが、結局この時には時間が取れませんでした。

 

このところ佐野常民氏はなぜどのように赤十字の活動と出会ったのだろうと、その名前を思い出していました。

 

*「日本赤十字の父 佐野常民」*

 

日本赤十字社の資料に「日本赤十字の父 佐野常民」がありました。

 1877年(明治10年)、日本で最後の内戦である西南戦争が始まった。そして、3月には熊本市北方の田原坂で、約5万8千人の政府軍と約3万人の薩摩軍が入り乱れての激しい戦いが続いた。

 戦死者を並べてとりでにするような戦いであった。負傷者は両軍とも民家などに収容したが、屋外からあふれ庭先に並べられた救護する人や薬は間に合わず、負傷者は水を求めてはい回り、そして土に伏して死んでいった。

 手当をすれば助かる負傷者が次々と死んでいく状況に心を痛める多くの人がいたが、その中で敵味方の区別なく負傷者を救護する組織を作ろうと考えた人がいた。元老院議官(今の国会議員のような仕事をする人)佐野常民(つねたみ)である。現在は当たり前と思われるが、当時としては初めて耳にする特別な考えの組織をどうして佐野常民は作ろうとしたのであろうか。

 佐野常民は九州佐賀藩の武士の五男として生まれたが、9歳で藩医の佐野家の養子となり以降京都、大阪、江戸で医学などを学んだ。

 そして、明治になる前年の1867年に、佐賀藩の代表としてフランスのパリ万国博覧会を見学した。その会場見学のある日、佐野常民は、白地に赤十字の印をした赤十字軍の展示館に注目した。国際的な救援組織である赤十字はその4年前の1863年に創設されたばかりであった。そして、敵味方の区別なしに傷ついた兵士を収容して看護する人道的なその考えに深い感銘を受けた。それは、大阪の適塾で師の緒方洪庵から学んだ人命尊重の精神「不治の病者(治る見込みのない病人)も棄てかえりみざるは人道に反する」の教えと相通じるものがあった。田原坂はまさに、アンリー・デュナンが最初の救援を行ったソルフェリーノの丘と同じように負傷者であふれ救いの手を持っている。それを見過ごすのは人道に反すると佐野常民は考えたのである。

 そのようなことから、西南戦争のさなかに負傷者の救護をする組織である博愛社を作ることを元老院議官大給恒(おぎゅうゆずる)と共に政府に願い出た。しかし、「賊兵(敵兵)を助けるとは何事か」という理由で断られた。佐野常民は屈しなかった。西南戦争の政府軍の本部である熊本の征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)にお会いし、博愛社をつくることを願い出た。幸い佐野常民の熱心な訴えが実り、1877年5月1日(明治10年)に許可を得ることができた。

 

 佐野常民博愛社の5か条の規則を次のように決めて救援活動を始めた。

第一条 博愛社の目的は戦場の負傷者を救うことであり、戦争には一切かかわらない。

第二条 活動の資金は社員の出すお金と 有志の出してくれる寄付金でまかなう

第三条 救護をする医者や看護人などは衣類の上に特別のしるしをつけ遠くからでもわかるようにする。

第四条 敵の傷病兵でも救えるものは救う。

第五条 国の法律を守り、軍医長官の命令に従う。

 活動を始めたころ、西南戦争は終わりに近づいたので、十分な活動はできなかったが、それでも従事した博愛社の救護員は199人、救護した負傷者は1,429人であった。

 西南戦争が終わってから、佐野常民博愛社の拡充に力を注いだ。それには一定以上の資金を出してくれる社員を増やさなければならない。明治11年の社員はわずか38人、それから多い年で18人、少ない年では8人しか加入してもらえなかった。佐野常民は人を見ると赤十字社への加入を呼びかけた。そのため、自宅を3回、4回訪問することは当たり前、中には7度訪問し、根負けして加入した者もいたほどである。

 佐野常民の次の目標は国際赤十字への加盟であった。そのため、専門の病院を作ったり、看護婦養成に力をそそいだ。そのような努力もあり、明治19年日本は国際赤十字に加盟し、翌年の明治20年博愛社日本赤十字社となり、佐野常民は初代社長となった。

 戦争で苦しむ兵士を救うことを目的として作った赤十字であったが、佐野常民は戦争のない平和な社会でも災害などで苦しんでいる人たちに救いの手を差しのべることも赤十字の使命であると考えた。

 そこで明治20年磐梯山大噴火や明治24年の濃尾大地震のような自然災害にもそれらの救護活動に熱心に取り組んだ。

 そして、明治27~28年の日清戦争では日本赤十字社は1,384人の救護員を戦地に送り、清国の捕虜1,484人を含む101,768人の傷病者の救護に当たった。

 これらの活動が新聞等で報道され、それに従って、赤十字社の社員も著しく増えていった。明治25年には23,000人、明治31年には500,000人に達した。

 そして、明治35年12月7日佐野常民は80歳で博愛の心をつらぬいた生涯を閉じた。

まさに、日本赤十字の父といえる一生であった。

 

博愛社が設立されてから一世紀後に看護学生になったのですが、1970年代後半にはまさに「敵味方の区別なく負傷者を救護する」ことは「当たり前」と思えるような時代に入っていました。

 

ただ、それは私がたまたま戦争を直接体験することもない幸運な子ども時代を過ごせただけであって、世界中、「戦死者を並べてとりでにするような戦い」が絶えることがないのが現実の人間の社会なのでした。

 

それでもアンリー・デュナンや佐野常民氏のような人たちのおかげで、160年ほど前から戦争の負傷者の救護のためにルールが作られてきたのだと、私の年表が少し正確になりました。

 

 

 

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