客観的のあれこれ 9  「迷惑」からリスク回避の注意へ

自分の行動が他の人を迷わせるとか戸惑わせるということを認識できるためには、どの発達段階でどのようなことが必要なのだろうと、通勤電車やプールの中で考え続けています。

 

1980年代を境に、「子どもを注意しなくなった」「叱らずに褒めて育てる」時代になったあたりの時代の変化が大きいのではないかと思い返しています。

それまでは、子どもというだけで容赦なくあれこれと知らない人からも注意されたり、怒鳴られたりしていた記憶がありますね。

このあたりもまた知っている世代と知らない世代が混在していることでしょう。

 

大人が感情をあらわにして怒るような注意のされ方は嫌だと思ったので、私ぐらいの世代からは穏やかに注意する、あるいは注意されるのは嫌だろうから注意しないあたりへと変化した印象です。

そして私の両親世代になると孫を叱らない優しいジジババになっていき、その変化に驚いています。

 

きっと、「注意する」イコール「叱る」という認識になった時代だったのかもしれません。

ですから、子どもだからと言って理不尽なことで大人に叱られることが少なくなったのは、良い変化ではありました。

 

 

*「迷い戸惑わせる行為を避ける」はリスク回避*

 

あの頃の「迷惑」と言う表現は、「邪魔」に近い感情が根強かったのかもしれませんね。

 

 

最近では私も、たとえば電車の中で走りまわったり、教室の延長で歌を歌ったり遊んだりしている子どもに遭遇すると、「迷惑」という言葉を使わないで、あるいは「叱る」という雰囲気ではなくて注意喚起するには何が良いだろうかと、パズルを解くように考える機会にしています。

 

やはり、その子ども自身が危険なことを回避できるような話にすると、理解してもらえるかもしれません。

走り回っていればもちろん、転倒して自身の怪我につながる可能性もあるし、子どもには目に入っていなかった配慮が必要な人に思わぬ怪我をさせてしまうこともありますからね。

大きな声で歌っていたり何かに集中しすぎていると、電車内の突発的なことへの対応も遅れてしまうかもしれません。

 

ただ、小学校低学年ぐらいだと、「危ないよ」「怪我するよ」「他の人が困るよ」ぐらい直球の方がわかりやすいかもしれません。

 

自分の状況を客観的にとらえられるようになるには、素直に人からの注意や忠告を受け入れられる年代にたくさんのその機会がある方がその後の長い人生で役に立つのではないか、そんなことを考えているうちに、注意する前に子どもたちは下車してしまいますが。

 

あの大震災直後にいい加減なことを言ってはいけないという忠告を素直に聞いてくれた高校生のように、感情的な注意ではなくリスクを回避するという視点であれば、受け入れてもらえることもありそうです。

 

 

*年を重ねても危ないと言う注意を受け入れられるかどうか*

 

そして、最近プール内の危ない状況に注意喚起してくれる、30年ぐらい前のプールの雰囲気が復活してきたのか、泳いでいる時に「危ないですよ」と注意されることがあります。相手方の方が危ない泳ぎ方だとしても、「ぶつかりますよ」と言う意味での双方への注意喚起ですから、ありがたく聞いています。

 

いろいろなレベルの人が混在するプールになって、注意されると納得がいかないのか監視員さんに詰め寄ったり、謎のルールで譲らない人をたまに見かけますが、「自分は悪くない」「自分が人に注意されることに耐えられない」と言う感じでしょうか。

 

リスクという言葉を医療で耳にするようになったのもたかだか40年ほどですが、もしこの言葉を日常的に使うことがなければ、相手の方に非があるのにと私も監視員さんに文句を言っていたかもしれません。

 

人を迷わせ戸惑わせる行動は「邪魔」だからいけないのではなくて、双方に危険だから注意喚起する。

1980年代ごろからの人に注意喚起をしなくなった時代が変化するには2~3世代の時間が必要かもしれない、そのあたりまで自分の考えが整理されてきました。

 

 

 

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