散歩をする 341  南中川駅から硫酸町へ

JR小野田線南中川駅は、周囲よりも高い場所に造られていました。

ホームから来た方向を見ると、両側の住宅の2階ぐらいに土盛りされた高さに線路が通っています。

無人駅で、少し急な階段を降りて歩き始めました。

 

地図でも碁盤の目のように道が通っている地域ですが、県道に出るとまっすぐな道を車が結構通過していきます。

道路沿いには、「この付近の地盤は海抜約0.9mです」と表示がありました。

 

石を積んだ形の碑がありました。

近づいてみると、あの昭和17年の風水害の記録がありました。

昭和十七年八月二十七日夜半颱風高潮猛襲シ全市忽チ泥海ト化ス本碑踏石上面ハ正ニ當時ノ潮高二準ス死者百二十五名其他ノ災禍擧テ録ス可ラス市民一体能ノ災害ノ克服ニ努ム朝野ノ扶援救恤亦到ラサルナシ殊ニ二六大都市ヲ始メ各地ヨリ寄贈ノ衣類ハ積テ山ヲナシ罹災者ノ感銘特ニ深シ茲ニ市民零細ノ資ヲ據メ災害一週年ニ此ノ碑ヲ建テ以テ永遠ニ感謝ノ微衷ヲ表セントス

記憶は少し曖昧ですが、石が積み上げられた高さは1m20~30cmぐらいだったでしょうか。

 

帰宅してから今回の遠出の記録を書いている時に、他の地域にも昭和17年の風水害の碑があることとつながりました。

 

 

山陽小野田市歴史民族資料館*

 

本降りの雨の中、駅から数百メートルのところにある山陽小野田市歴史民族資料館を目指しました。

まっすぐだった県道がY字に分かれる交差点の先に大きな建物があり、そこが図書館と資料館でした。

美しい庭木の敷地内を、雨の中自動ロボットの草刈り機が手入れをしていました。干拓地や昭和17年の風水害のことを考えながら歩いてきたので、突然、架空の世界に迷い込んだような感覚ですね。

 

この辺りは小野田新開作で、小野田港駅のあたりが小野田古開作だったようです。

開作に関してやこの地域の産業についての展示が充実していて、展示内容を全て写真に収めたいと思うほどでしたが、ふと「山陽小野田市 ふるさと文化遺産」という資料があることに目が留まりました。

あの開作とはというネットで見つけた内容も含まれた詳しい資料で、迷わず購入しました。

 

今年の6月11日から8月30日までは、「企画展 昭和17年8月27日ー80年前の風水害ー」を展示しているようです。

 

 

硫酸町

 

私の遠出の計画はいつも、地図で気になった場所からスケジュールを組み立てています。

 

今回の南中川駅で下車したのも、地図を眺めていたら有帆川河口右岸に「周防灘干拓遺跡高泊開作浜五挺唐樋」を見つけて、ぜひそこを歩いてみたいと思った空でした。

最初は目出駅から歩こうかと思ったのですが、よくよくみると「硫酸町」という地名があり、どんな場所なのだろう由来はなんだろうと気になったのですが、そこにちょうど郷土資料館がありました。

それなら南中川駅で下車して資料館を訪ね、硫酸町から「横土手」そしてその干拓遺跡まで歩いてみようと思いついたのでした。

 

風水害の石碑を見ることができ、なんとも偶然がつながって満足の計画となりました。

 

資料館を出て北東へと少し蛇行する県道を歩くと、左手が「硫酸町」で大きな黒屋根の落ち着いたレンガづくりの工場の敷地と街路樹が整備されたゆったりとした歩道が続き、右手が「日産」という地名で山を切り崩したような場所に住宅がまばらに立っていました。

有帆川を渡る橋の直前に、先ほどの郷土資料館で見た茶色の甕の大きなモニュメントがありました。

 

小野田橋

 小野田橋は、明治42年に当時の須恵村高千帆村を結ぶ橋として架設されたもので、その後の町制を経て昭和15年の両町合併による市制制度への推進役を果たすとともに、皿山で焼かれた硫酸瓶の出荷拠点でもあったことから、市の産業・歴史・文化に大きく貢献した橋です。

 もともと小野田橋は現在地より50m上流の位置にありましたが、昭和15年に新しく産業道路用として建設された本橋を小野田橋と呼ぶようになりました。

 このたび本橋は橋の老朽化が進んだため、小野田メインストリート景観整備協議会の諮問を受け、平成8年3月に再整備されたもので、全長71.40m、全幅長16.00mの三径間単純PCポステンT桁橋です。環境整備に当たっては、小野田市の歴史や文化をはぐくむ"豊かな時の流れ"をイメージした修景が施されています。

 

そうでした、「橋を架ける」ことが両岸を結ぶ時代が始まってからそれほど経っていないのですよね。

橋ひとつにもそれぞれの歴史がありますね。

 

旦(だん)の皿山

 小野田市の窯業の起こりは、天保の末年に周防富田出身の陶工甚吉が、萩藩大組土佐世彦七の協力を得て、ここに焼物の窯を築いたのが始まりです。

以降、市内の各所に窯が築かれ、日用雑器からセメント会社の徳利窯用の赤煉瓦まで、様々な製品が生産されました。特に明治22年に創業した日本舎密製造(株)が良質の硫酸瓶を必要としたことから、旦を中心に窯業の全盛期を迎え、大正初年には江本小十郎が亀の甲に須恵陶器所を開窯しました。窯業は、その後昭和30年頃までに市の基幹産業としての役割を果たしました。

 この広場は、小野田橋と一体的に整備されたもので、硫酸瓶が「おわに船」によって積み出される様子をイメージして作られました。モニュメントの硫酸瓶には、かつての皿山の風景が描写されています。

 

地図で「硫酸町」を見つけた時には、高い煙突からモクモクと白い煙が立ち上る工業地帯を想像していたのですが、実際に歩いてみると河口に静かな街が広がっていました。

 

 

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