予想以上に市内の美しい湧水や川の風景に、もっと時間をかけて盛岡市内を見てみたいと思いました。
名残惜しい気持ちを抑えて駅に向かう途中、北上川の大きな橋を渡りました。
この橋がトラス橋だとすぐにわかったのも、散歩のおかげです。
たもとに「開運橋(かいうんばし)の歴史」という説明がありました。
初代の開運橋は、盛岡駅開業に伴い当時の岩手県知事石井省一郎が中心となり、私費を投じて長さ50間(90m)、幅27尺(8.3m)の木橋を約45日間の短期間で建設したものです。
当時の橋は有料で通行料1銭を徴収されたと言われ、関西の翌年に無料となり、その後1900年に県に編入されました。
わずか一世紀ほど前は橋を造るにも私費だった時代から、社会へ富を還元するということが公共事業という言葉や概念に変わったのはいつ頃からだったのでしょう。
初代の開運橋が洪水のたびに被害を受け通行が途絶えたことも多かったことから、近代洋式の永久橋(2径間プラットトラス橋)に架け替えられました。
橋の長さは82.4m、幅は13mで、本県発の本格的な銅橋で注目を集めたと言われています。
橋の正面には大きな橋銘板が掲げられ、橋の袂には瀬戸物製の油壺付きランプが灯されるなど装飾美が自慢の橋梁でした。
現代の開運橋は、急激な交通量の増加による損傷に対応するため、剛性の強い「鋼単純下路式ランガートラス+2径間鉄筋コンクリートT桁橋」に架け替えられました。橋の長さは82.5m、幅は18.2m(4単線)に広がりました。
朝、歩き始めた時にはまだぱらつく雨の中に見えていた岩手山に、北上川そしてこのトラス橋が映えていました。
「盛岡へ転勤してきた人が開運橋を渡りながら、遠く離れた所まで来てしまったと涙を流し、再び命を受けて盛岡を離れる頃には、今度は去り難くて開運橋の袂から岩手山を見上げて涙を流す」という、「二度泣き橋」と呼ばれていることが書かれていました。
*「よみがえった北上川」*
その開運橋のそばに、「鮭が遡上する清流・北上川を守ります」という説明板もありました。
柳津で北上川を案内してもらったタクシーの運転手さんが、「北上川には鮭も上ってくる」と言われたことを思い出しました。
全長249kmと東北随一の大河・北上川は、岩手県の豊かな自然環境の象徴であり、秋になると鮭が遠く太平洋から遡上し、盛岡の秋の風物詩として親しまれる清流を誇っています。
しかしながら、この北上川がかつて旧松尾鉱山から流れた強酸性水によって濁り、魚が住めない時代があったという事実をご存知でしょうか。
当時の県民の悲願であった清らかな流れは、関係者のたゆまざる努力により取り戻されたものです。
ここでは、当時から現在まで休むことなく続いている「北上川の清流を守る取組」についてご紹介します。
よみがえった北上川
松尾鉱山は、岩手県の八幡平の中腹に位置し、硫黄や硫化鉄鉱を生産することで、一時は「雲の上の楽園」と呼ばれるほど隆盛を極めましたが、昭和40年代になって経営が悪化し閉山しました。
この鉱山活動の影響で大量の強酸性が流入し赤褐色に濁った北上川は、当時、大きな社会問題となりました。
この問題に対応するため、旧松尾鉱山に新中和処理施設を建設し、強酸性水を中和することで北上川は清らかな流れを取り戻し、「母なる川」としてよみがえりました。
365日・24時間休むことのない取組
旧松尾鉱山には鉱石が多く残っており、坑道に地下水や雨水が流れ込むことによって強酸性水が生成されるので、現在も新中和処理建設に置いて365日・24時間休むことなく中和処理を行い、北上川の清らかな流れは保たれています。
この説明板を見た時、明治以降の近代化や戦後の工業国化への変化の中での公害かと思って読んでいたのですが、今回の遠出の記録を書くにあたって過去の記事を読み直していたら、北上川本流は鉱毒によって汚染されているためという「江戸時代以前の開発状況」の一文につながりました。
1970年代終わり頃、私が看護学生だった頃にもまだ妊娠・出産時に休養をとることさえできず、妊娠中毒症の発症率も高いのに、医療を受けることもなく無介助での分娩をせざるおえないような経済的に困窮していた地域がこの北上川流域にもあり、同じ頃、鉱山が閉鎖されて北上川の清流を守るための取り組みが始まったことになります。
当時、日本が求めていた経済的な豊かさが、その二つの改善を可能にしたと言えるでしょうか。
このあたりの生活はどのように変化したのでしょう。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。