鵺(ぬえ)のような 12 脛に傷を持つもの同士

闇が見える瞬間があると感じてから3週間ほど、ニュースを追っています。

 

どのニュースだったのか保存し忘れてしまったのですが、ごく最初の頃にその宗教団体の元会員のインタビューがあり、自分達が解放されたくても大物の政治家たちが団体に関わっていることで誰が助けてくれるのかと絶望感を抱いたことが書かれていました。

 

そうなのだ。

その絶望感が、私の感じた「闇」の正体だと思いました。

 

30年ほど前に「近づいてはいけない」という雰囲気だった団体が、今こんなことになっているのかという驚きが次々とニュースになりました。

会ったこともない人と合同結婚式を挙げるとか祖先の祟りという不安を煽る霊感商法といういかにも怪しいものだったのが、環境とか平和といった市民運動に姿を変えて洗練された雰囲気になっているのも驚きですし、尋常ではない献金額にも驚きですね。私が心身ボロボロになりながらこの歳まで働いてきた給料なんかではとてもとても払えないようなお金を出す人が普通にいて、こうした団体を支えてきたことも驚きです。

そして以前はここまで「日本の植民地政策への反発」「日本が金づる」が表立っていなかったのに、むしろ海外ではそういう見方が当たり前なのにも驚きました。

 

でも、おかしいですよね。

大学入学時などに「その団体に近づいてはいけない」と注意されてきた人たちが政治家になり、「知らなかった」とさまざまなイベントに関わったり、いつの間にか法的に認められるようになったり。あるいは、外交上では韓国と丁々発止の対応をしているのに。

いろいろな闇があるのですね。

 

関係のあった政治家が次々とその痕跡を消そうとしていくのを見ると、皆さん、脛に傷を持つからこの闇を解決する方法がどんどんと違う方向へと捻れていくのだろうなと。

 

選挙ではイデオロギーにかたよった人ではなく、現実の問題解決を提示できる人を選ぼうと一票を入れましたが、やはりこの鵺のような雰囲気と無縁ではなかったようです。

そういう議員さんに一票入れたことや、政策を支持していた人たちもまた一斉に脛に傷を持つ状態になってしまったように見えてきました。

 

今回の根本的な問題点はなんなのか、再発防止は何か。

わかっているはずなのに、そこがうやむやになっていく。

そういう雰囲気の時には、社会の中に脛に傷を持つ人が多い時なのかもしれない。

自分の失敗や過ちを認めるのは並大抵ではないですからね。

 

 

今回のように何か狂信的なものに社会が突き動かされた時にどうするか、二度と同じことが起きないようにと焦るのではなく、「習性」をあきらかにするまで覚悟できるかどうかで、絶望が希望に変わるかどうかがかかっているのかもしれませんね。

 

 

 

 

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