記録のあれこれ 128 福島潟と新潟県立環境と人間のふれあい館

JR豊栄(とよさか)駅から福島潟までは思ったより遠いなあと思ったら、歩いて1時間ほどかかりました。

ようやく目の前に福島潟が見えて始め、水田地帯の終わりのあたりに流れる新井郷川(にいごうがわ)に沿って北東へと歩くと福島潟の放水路がありその一角に県立環境と人間のふれあい館がありました。

 

ようやく福島潟の端まで辿りつきました。新井郷川の南側はまた広大な水田地帯で、国営福島潟干拓事業の一つ、内沼潟だったようです。

訪ねてみて、福島潟は歩いて回る場所ではなく車でないと無理だと実感しました。

 

この新井郷川は福島潟放水路へ向かって流れているのかと思ったら、福島潟を源流とし、阿賀野川・日本海へと注ぐようです。

さらに、Wikipediaの江戸時代の放水路建設以前からの説明には、「かつて新井郷川阿賀野川へ合流し、さらに信濃川に合流してはじめて日本海へ流出する河川であった」と書かれています。

現代の地図からは想像ができない、新潟の川の複雑さですね。

 

新潟県立環境と人間のふれあい館*

 

入り口に石碑がありました。

新潟水俣病の歴史を教訓を伝える碑

 

 新潟水俣病は、昭和電工株式会社鹿瀬(*)工場から阿賀野川に排出されたメチル水銀食物連鎖で川魚に取り込まれ、それを人々が多食したことで発生した公害病で、一九六五(昭和四十)年に被害が確認されました。

 一九五六(昭和三十一)年に熊本県水俣病が確認されてから九年後に発生したため、第二の水俣病ともいわれます。

 高度経済成長期、我が国が豊かで快適な社会の実現を追求してきた一方で、この公害の発生により、平穏に暮らしてきた人々にとって予想もしなかった甚大な被害が生じました。

 被害が確認されて半世紀を経た今日において、いまだに訴訟による解決を求めなければならない状況が続いており、被害の全貌も明らかになっていません。健康上の不安や経済的な不安を抱える人、いわれのない偏見や中傷に苦しみ被害の声をあげることのできない人も存在しています。

 公式確認から五十年の節目にあたり、私たちは、このような悲惨な公害を繰り返してはならないという思いを後世に引き継ぐとともに、美しく恵み豊かな故郷を守っていくことを誓い、この石碑を建立します。

   平成二十八年三月 

 新潟県水俣病公式確認五十年事業実行委員会会長 新潟県知事 泉田裕彦

 

 

私が20代から30代の頃にこれを読んだら、表面的な知識だけで、そしてどちらか一方側の立ち場からだけで「杜撰な企業、無責任な企業を糺さなければならない」と正義心に萌えたことでしょう。

1980年代、まだ日本の運輸・製造・医療といった分野にリスクマネージメントという言葉が浸透する前の時代でしたから。

 

未曾有の事態が起こった時の救済と再発防止策は感情の問題もあって現実にはなかなか難しいことではありますが、少なくとも失敗を認めて次に活かすための方法が明確になりました。

むしろ社会にまだリスクマネージメントとは何かが浸透するまでに時間が必要で、それが「いわれのない偏見や中傷」になっている部分もあるのではないか。

 

 

そんなことを考えながら、資料館に入る前にしばらく石碑の前に立っていました。

 

 

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