小金がまわる 27 献金

私の人生の中で、「献金」という言葉が日常的になったのは20代終わりの頃にキリスト教に関わり始めた時でした。

「募金」はしたことがありましたが、「献金」という言葉になんだかとても威厳のようなちょっと緊張感を感じた頃の記憶が最近蘇っています。

 

知人に誘われて通い始めた教会は教会堂を持つこともなく、聖書を批判的に読みながら人生や社会を考えることに力を置いていました。

ここ3ヶ月ほどテレビで見かける、栄華と権威と権力を積み重ねていく世俗的な方向とは対極の教会かもしれません。

 

献金はありましたが自由献金で、年度の会計報告ではいつも赤字スレスレで、牧師への謝礼が不足しそうと呼びかけがあった記憶もあります。教団から出る給与は一般社会から見ると低いのに、ご自身が他のことで得た収入は席上献金をされることもあるような牧師さんでした。

 

最初の頃はたまに出席する日曜礼拝などの席上献金だけでしたが、次第に月約献金をするようになりました。

これは1ヶ月にいくらと自分で決めた額を献金するものです。

仕事の関係から日曜礼拝にはなかなか出席できなかったので、月約献金をするようになりました。

 

「十分の一献金」も耳にしたことがありますが、献金額が強制されるような雰囲気は全くありませんでした。

Wikipediaの「自由献金」に書かれている以下の考え方に近いものがあったのかもしれません。

ラブリー・チャペル元牧師の八巻正治は「一般の教会では『礼拝献金』が為されることが多いと思われます。勿論、それは本質的には何ら強制されることはないのですが、そうした形式によるところの献金に疑問を有していたり、あるいは経済的に困難さを覚えている人たちにとっては、この礼拝献金だけで大きなつまづきとなってしまう場合もあります。」また、「教会ではこの他にも各種の献金アピールが為されることが多いために、経済的に困難さを覚えてる人にとっては、そうした献金のゆえにいっそう教会へ行くことが心的負担になる場合もあります。

 

 

経済的困窮ではないのですが、離れて暮らす両親が次第に身の回りの世話が必要になり、交通費や生活用品を購入する額がけっこうなものになりましたから、その頃に減額しました。

献金額を減らすということは、誰に何を言われるわけでもないのになんだか心苦しいものがあるのはなぜだろうと感じながらも、当時は「献金とは何か」あまりつきつめて考えたことがなかったのでした。

 

教会が潰れてしまうと自分の居場所もなくなるような、そんな不安から払っていたのかもしれません。

 

教会への献金をしなくなったのは、教会と決別したからでした。

どうするかかなり長い時間をかけて葛藤している間も、献金は送金していました。

 

当時不安に感じていた献金をしなくなると罪悪感を感じるのではないかというのは、全くの杞憂でした。

 

 

ところで私自身があまりしっかり考えてこなかっただけでなく、献金という言葉自体、なんだか雲をつかむような話ですね。

どちらかというと、そうせねばならないと自分で生み出した呪縛のようなものかもしれません。

 

 

ここのところ毎日のように耳にするこの言葉を、我がこととして突き詰められている人も世の中には多いかもしれませんね。

どれくらいのお金がいろいろな宗教で、あるいは政治献金で動いているのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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