鵺(ぬえ)のような 18 「黒を白に、白を黒に」

職場やそれほど気心を知らない程度の人間関係では、まず政治的な話や宗教の話は避けています。

政治や宗教について自分の考える正しさをネット上のように表明してしまうと、日常生活の中では平穏を保っているような関係が壊れてしまうことがありますからね。

 

ところがここ2ヶ月半ほど、それを踏み絵にしたような緊張感がリアルの人間関係に重苦しくのしかかっているよう感じる時があります。

何かに反対あるいは賛成と表明するだけで、他のことでは気が合っていた人ともすきま風が吹いてしまうことになりかねません。

 

ある人がそ〜っと話しかけてきました。「なんでこんなことになったのかそこを知りたいのに」と。

「ほんと、『再発防止(一切かかわらない)』の話は出るのに、肝心の何が原因だったのか(なぜ関わるようになったのか)がよくわからないままなのはおかしいですよね」と、私もそ〜っと答えました。

 

私自身、政治や宗教あるいは仕事上のさまざまな考え方について何度もねじれ反動から中庸へと変化してきましたから、特定の政党を強く推しているわけでも反発しているわけでもないし、むしろどの党であってもあの東日本大震災やコロナという未曾有の災害に対応してくださっていることだけで感謝と尊敬の念はあります。

 

あるいはあちこち散歩をして、私が生まれる以前から隅々に社会基盤が整備されていることを実感するようになりました。

そしてどんな人でも見捨てないという方向性が築かれてきたことに信頼と誇りを感じていました。

 

この話題がテレビで続いているのは、良いこともしたのに身を滅ぼすことになる政治の世界はなんだろう、そうならないためには今どうしたら良いのだろうという関心も社会にあるのではないかと思えてきました。

 

*気持ちの問題では原因の究明はできない*

 

ところがまたこんな発言が伝わってきました。

 旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題では、本当に我々が標的にされるような状況の中で、悲しみと、つらさ、不愉快さも含めて皆さん方が結束を乱さず、耐え忍んでいただいている。

(2022年9月19日、「『旧統一教会の問題、安倍派が標的に』 安倍派会長代理の塩谷氏」、朝日新聞

 

社会に大きな影響を与える重大事故に対してリスクマネージメントが徹底し始めた社会では、たとえ一生に一度遭遇するかどうかの事故でも、あるいは日頃からどんなに誠意を尽くして仕事をしている人が事故に遭遇しても、事故は事故。

再発防止のための原因究明に向き合い責任を果たすことが求められています。

 

もし今私が、「なんで私に当たってしまったのか」と運命を呪いたくなるような医療事故にたまたま遭遇してその対応をしなければいけなかったとしても、「自分が標的にされている」なんて言いませんね。

ましてや意図的にとった行動が事故につながったとしたら…。

自分の人生が終わったかのような悲嘆の中で、粛々と記憶と記録をたどって何が起きたのか事実を確認し、再発防止のために自分の失敗を活かすことに全力を尽くすしかありません。

 

 

「黒を白に、白を黒に」とうやむやにせず、「なぜ黒になったのか」を突き詰めていくことで現代の社会の安全性や正確性が保たれるように大きく変化したことに、政治家の皆さんはもしかしたら気づいていないのかもしれない。

 

 

これもまた竹の節のようなものかもしれませんね。

ここを乗り越えれば、新しい政治の方向性が作られるかもしれない。

そんな希望を捨てないでいます。

 

 

 

 

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