大牟田駅で鹿児島本線を下車し、西鉄天神線に乗るまで少し駅の周辺を歩きました。
ロータリー周辺はレンガの歩道で落ち着いた雰囲気です。
「世界遺産のまち 大牟田へようこそ 明治日本の産業革命遺産 三池炭鉱関連資産」と表示がありました。
三池炭鉱の名前も子どもの頃から耳にしていましたが、昨年佐賀を訪ねるために有明海周辺を地図で眺めるようになって、初めて大牟田市とつながりました。
石炭産業科学館もあり興味深いですが、今回は残念ながら炭鉱の歴史を知るための時間が取れませんでした。
大牟田の「牟田」は干拓の意味をあらわす言葉と知って、ますます歩いてみたいものです。
どんな歴史があったのでしょうか。
*「三池炭鉱」より*
九州農政局の「有明海東部地区の歴史」では、柳川の干拓の歴史に続いて「三池炭鉱」についての説明があります。
有明海東部地区の三池工区は、現在では干拓地で盛んに農業が行われていますが、つい数年前までは、石炭の採掘が行われていました。
「つい数年前までは」というこの説明が何年に書かれたものかわからないのですが、1997年に閉山したようです。
一時は全国の石炭の4分の1の採掘量をほこった、日本最大の炭鉱「三池炭鉱」。その歴史は、1469年、現在の大牟田市大浦町付近で「燃える石」が発見されたことがはじまりとされています。炭鉱の歴史は明治、大正、昭和と続き1997年に閉山するまで地域経済基盤として重要な役割を果たしていました。
三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜した形でのびています。そのため、時代を重ねるごとに抗口が海へ海へと移り変わっていきました。当時の街を支えた四山杭・三川杭・有明杭・三池杭などは有明海海底350~450m付近の炭層を採掘したといいます。
エネルギーとしての「石油」の台頭により石炭の需要はなくなり、三池炭鉱はついに閉山に至ります。後に残された資源は農地だけとなりました。
(強調は引用者による)
なぜ「九州農政局」の説明で「三池炭鉱」なのかとその意味が最初わからなかったのですが、この浅い炭層が理由だったのですね。
山の奥の方に炭鉱があるものだとばかり思っていました。
そういえばどの資料だったか思い出せないのですが、大牟田の干拓地では炭鉱の影響で澪筋が埋まったような話を読んだ記憶があります。
それだけ干拓地に近い場所だという意味だったのかもしれませんね。
*三池干拓*
さらに「昭和の干拓事業」で「三池干拓」の説明が書かれていました。
三池干拓は、明治の中期頃から干拓計画がしばしば進められたものの実現には至らなかった地区です。戦後の食糧増産政策によって農林省の直轄事業となり、矢部川から堂面川までの地先541haが干陸されました。昭和27年に着工したこの事業では、昭代工区、大和工区同様、有明粘土と言われる超軟弱地盤上に堤防が築造され、昭和42年12月に完成しています。
地図では「昭和開(しょうわびらき)」のあたりでしょうか。
クリークとは違いまっすぐな水路とまっすぐな住宅地で、航空写真で見ると水田地帯のようです。
目の前は有明海で、おそらく水田越しに雲仙岳も見えることでしょう。
炭鉱の街から激変した昭和の時代、さらに減反政策の時代へ、この地域にはどのような生活の変化があったことでしょうか。
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