行間を読む 174 右と左

ここ2年ほど、奈良というのはまるで熊手のように盆地周囲の山から小さな流れが集まって合流し大和川になり西へと流れ、その川の周囲に寺社や街ができている様子を思い浮かべていました。

 

平城宮跡を訪ねてからは平城京の都市計画の図がそれに重なるようになりましたが、いろいろと不思議な思いに駆られています。

奈良盆地は川が大阪の方へ流れるために、おそらくお盆を西へと少し傾けたような傾斜があるのではないかと思うのですが、そこに右京と左京を対称につくったことがまず不思議な感じでした。

 

平城京平安京というと碁盤の目のようにまっすぐな道で区切られている街だったことは学生の頃に習ったのですが、そこには小さな川も複雑な起伏もあったはずなのにまっすぐの区画で区切るというのは斬新な発想だったのかもしれませんね。

もっと大陸的なだだっ広い平地がある場所の街の作り方を、無理やり当てはめたかのように見えてきました。

 

それまでだったらおそらく川のそばなどを避けて高台で安全な場所に集落が発達し、曲がりくねった道が集落をつなぐ感じだったのではないかと想像するのですが、平城宮から見た当時の右京と左京はどんな感じだったのでしょう。

 

と考えているうちに、物心ついた頃から「こっちが右」「こっちが左」と繰り返し教わってきたので今は当たり前と思っているけれど、人間が右と左を区別するようになったのはいつ頃からなのだろうと気になり始めました。

以前から臍の緒の巻き方胎児の向きについても右と左の差が気になっているのですが、案外とこうした人間の感覚の基本的なことってわからないものですね。

頼みの綱のWikipediaを読んでも分かりませんでした。

 

コトバンクの「右と左」を読んだらますますわからなくなってきました。

右あるいは左を絶対的に定義することは不可能である。一般には例えば右を<北を向いたとき東にあたる方>とか<北に向かって右>とかいうふうに右、左を使わねばならないから、これは一種のトートロジーである。左右対称(鏡面対称ともいう)を幾何学的に定義することは可能だが、対称性を正中面で二分したときのいずれを右、左というのかは相対的にしか決定できない。

(世界大百科事典第2版 「右と左」の解説より)

 

「右と左」についての何がわからないのかがわからなくなってきたという感じですが、1300年前の奈良の人たちはそれまで地形から認識していたものを、「平城宮から見て右、左」という認識になるには大きな変化や葛藤があったのだろうかと気になっています。

 

 

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