鵺(ぬえ)のような 20 息を吹き返した 

昨年5月、私の三十数年間分の時間がひっくり返るような気持ちになる出来事がありました。

「こんなことがあるのだろうか」と「これが人間の社会なのか」という思いでしばらく揺れていました。

 

このところ、あの連続強盗殺人事件の容疑者を強制送還する話題でまたその名前を耳にしました。

本当に大統領になって近々来日するようです。

当時は「Jr」をつけて呼ばれたりボンボン・マルコスと呼ばれていたのに、最近のニュースではフェルディナンド・マルコス大統領になっているようです。

 

*さまざまな記憶が蘇る*

 

1986年2月25日、多くの市民にマラカニアン宮殿を包囲されたマルコス大統領はヘリコプターで脱出し、クラーク米空軍基地からアメリカ軍機によってアメリカへ亡命したのでした。

当時私が住んでいたフィリピンの地方都市では驚くほど静寂で、長いこと軍事独裁政権に弾圧されてきたことで人々は慎重なのだろうか、それとも大統領の首をすげ替えても容易に社会は変わらないという受け止め方だったのだろうかと印象深く残っていました。

 

そして数年もしないうちにマルコス一家が亡命先から戻っただけでなく、その子どもが再び国会議員になったことに驚いた記憶があります。やはり、容易に社会は変わらないのだろうかという失望を感じながら。

シニアが1989年にハワイで死去した後、コラソン・アキノ大統領はマルコス家の帰国を許可し、一家はフィリピンに戻った。権力基盤の再構築を開始し、1992年から1995年には北イロコス州第2地区選出の下院議員を務め、1998年には再び北イロコス州知事に正当な選挙による当選で就任した。

Wikipedia「ボンボン・マルコス」「来歴」、強調は引用者による)

 

マルコス支配に反対し続けた夫ベニグノ・アキノ上院議員がマニラ国際空港で暗殺されたのが1983年で、その翌年私はフィリピンに赴任しました。

その妻だったコラソン・アキノ氏がPeople's Pwoerで大統領になって間も無く、あっさりとマルコス一家やマルコス元大統領の遺体の帰国を許可したことにも驚きました。

 

そうそう、こちらの記事で「戒厳令下だった」と書きましたが、Wikipediaの「フェルディナント・マルコス」を読み直すと勘違いだったようです。

1981年1月に予定されたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のフィリピン訪問を前にして、布告第2045号によって、戒厳令は解除された。

たしかに1984年ごろの首都ではそれほど軍の存在は感じない生活でしたが、少し離れるとあちこちに政府軍のチェックポイントがありましたし、知人から「martial law」という言葉をよく聞きました。

「革命」の後、1990年代に入っても都市から離れた地域では狂気を帯びた兵士による厳しい監視があり、テレビでは死の映像が日常的でしたからあまり様子は変わらないように思えました。

 

財閥や富裕層は当時の日本のごくふつうの社会からは想像もつかない力を持っていて、アキノ元大統領も自分の足元の民主化は進まないとか、植民地時代からのしがらみで混沌としたフィリピンの状況は理解を超えるものでした。

 

 

*誰が息を吹き返させたのか*

 

フィリピンの風景がテレビに映ると懐かしいし、第二の故郷のような気持ちで見ています。

時間の変化がゆっくりで、市場や食堂あるいは地方都市の雰囲気は三十数年前と変わらないですね。変化したといえば、誰もがやはりスマホを手にしていることでしょうか。

 

昨年の選挙前は、若い世代がインターネットを駆使してイベントのような盛り上げ方で選挙運動をしているボンボン・マルコス氏の姿が日本でも報道されていました。

 

なぜその父親とともに亡命したのか、なぜ帰国できて、30年ほど経つと過去が忘れられたかのように大統領に選ばれたのか。

あの時マラカニアン宮殿や政府軍を取り囲んだ市民は今どんな生活をしているのだろう。

 

誰が彼と彼の家族の息を吹き返させたのか。

もう少し深く切り込んだ報道はないのだろうか。

 

不正としがらみで大変そうな国だったからなあと昨年は思っていましたが、私の足元も他人の国のことは言えないほどひどい状況ですね。

 

 

 

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