発達する 34 温故知新

「古臭く感じる」には、年齢や世代間の感覚の違いでもなさそうですね。

 

先日の国会中継を観ていたら、相変わらず誰もが経験したことのない未曾有の感染症なのに、国会では罵声や非難の声が飛んでいる状態に、半年前と同じ「ああ、なんだか古臭いなあ」と感じました。

 

感染症拡大をどう制御するかというリスクマネージメントの問題に対して「喧々諤々の議論というスタイル」も古臭く感じるのですが、何よりもこんな非常事態の真っ最中に「個人の責任を問う」やり方が古臭いなあと思ったのでした。

 

リスクマネージメントという言葉をどこまで私自身が理解できているかといえば、人間は間違いをおかすものとかヒヤリとしたことから学ぶとか、感情やイデオロギーを一旦脇において、事故そのものを分析するぐらいで、まだまだ心もとないのですが、この四半世紀で個人を責めるのではなくシステムを問うという考え方は理にかなっていると思うようになってきたのですけれど、社会にはまだまだ浸透していないのかもしれないですね。

 

 

*古い時代のことが新しく感じる*

 

医療現場でリスクマネージメントという言葉が広がったのは1990年代でしたから、新しい考え方だと受け止めていました。

 

最近、あちこちを散歩する中で、一世紀以上前にもこの言葉に繋がるものがたくさんあったのだとわかるようになりました。

 

たとえば1885年(明治18)の淀川の大洪水から「二度とおこしてはならない」と大改修をしようとした方々とか、1893年(明治26)の大洪水から高梁川の改修を行った方々とか、何かの危機に立ち上がって「二度と繰り返さないように」という行動によって一世紀後のいま、安全が守られていることがたくさんありますね。

 

あるいは、人類のためとか事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚めるとか、今の社会なら簡単に口にできそうな理想ですが、それに気づくことがいかに大変だったか、そしてその恩恵を私は受けているのだと。

 

最近、温故知新の意味がようやく少し理解できるようになってきました。

 

 

一世紀後に、今の状況はどのような智恵として語られるのでしょうか。

 

 

「発達する」まとめはこちら

失敗とかリスクに関する記事のまとめはこちら

新型コロナウィルス関連のまとめはこちら