落ち着いた街 28 万葉まほろば線の車窓の風景を、古墳を訪ねて歩く

8月下旬に万葉まほろば線の車窓から見た溜池や水田をいよいよ歩きます。

 

9時40分に奈良駅発高田行きの万葉まほろば線に乗りました。快晴で日差しも強くなってきて13度まで気温が上がっていますが、都内の9度よりもむしろピリッと空気が冷たく感じました。

緑一色だった8月とは別世界で柿の橙色があちこちに見えて紅葉も美しく、水田は茶色の晩秋の景色です。

京終(きょうばて)駅を過ぎて両側に水田地帯が広がり始めますが、ゆるやかに下っている西側の水田地帯はかつての平城京の中心部だったと思うと不思議な感じです。

 

街の雰囲気が変わり、9時53分に天理駅に到着しました。このあたりから東の山裾に周濠のある古墳が増えます。そこを目指してバスに乗り換えました。

ぐるぐると天理教の建物が集まる街を回ったあともとの奈良の風景に入り、10時19分に成願寺バス停で下車しました。

 

*燈籠山古墳から山の辺の道へ*

 

パソコンの地図では燈籠山古墳が記されていてその周囲にいくつか溜池があるようなので、まずそこを目指すことにしました。

 

国道169号線を南へ少し歩いたところに、古墳への道があるようです。その道へ曲がると、暗渠になった幹線用水路と思われる水路が南東の方から来ています。

その暗渠を越えると上り坂になり、地図に描かれている最初の溜池が左手にありました。

 

説明板があるので近づいてみると、なんと地図には記載されていなかったのですがここも古墳のようです。

下池山古墳(しもいけやまこふん)

 下池山古墳は成願寺町集落東方の尾根上の傾斜地に位置し、前方部を南に向けた前方後円墳です。築造当時の墳丘(ふんきゅう)規模は全長125m、後方部高さ約14m、前方部高役7mに復元されます。前方部幅は現状で約27mですが、改変が著しく元の規模は不明です。

 平成7・8(1995・1996)年に学術調査がおこなわれました。墳丘は前方部・後方部とも2段に築かれ、斜面は葺石(ふきいし)で覆われていた一方、埴輪列は持たないようです。

 埋葬施設は、後方部墳頂の中央に墳丘主軸とほぼ並行して、内法(うちのり)で6.8mもの長大な竪穴式石室(せきしつ)が築かれ、石室内にはコウヤマキの大木をくり抜いた割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が安置されていました。石室上部は、壁として積んだ石を上に行くほど徐々にせり出させる「合掌形」で築かれています。石室の北西側には、銅鏡を納めた内法約50cm四方の小石室が見つかりました。石室の石材は、鑑定の結果、大阪府柏原市に産する石材と判明しています。

 副葬品は、石室内からガラス玉、勾玉、腕輪などの装身具類や鉄器片が見つかりました。また、小石室で見つかった同郷は「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれ、直径37.5cmの大型品です。鏡には繊維が付着しており、縞織(しまおり)の平絹やウサギの毛織物などで袋を作っていたようです。

 これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。

     平成26(2014)年10月6日 国史跡指定

     令和元年(2019年)9月 天理市教育委員会

 

畦道を歩いただけで古墳や周濠に出会う奈良ですね。

 

その反対側にふたまわりくらい大きな溜池があり、その上に墓地が見えました。

その方向へと道を曲がると、「東海自然歩道 奈良盆地周遊型ウォークルート 山の辺の道」の標識がありました。地図にもところどころ「山の辺の道」があったのですが、私が計画していた場所はこの古代からの山辺の道と重なっていたのでした。

 

舗装道路なのにまるで石畳のように古くなった道を上っていくと墓地が見えてきました。なんと奈良盆地から大和三山までぐるりと見渡すことができる場所に墓地があります。

 

その念仏寺の南側に燈籠山古墳の説明がありました。

燈籠山古墳(とうろうやまこふん)

 

 燈籠山古墳は、東殿塚(ひがしとのづか)古墳・西殿塚古墳・中山大塚(なかやまおおづか)古墳などと同じ丘陵上に位置する前方後円墳です。この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。

 古墳の規模は、現状では全長110m、後円部径55m、後円部高さ6.4m、前方部幅41m、前方部高さ6.3mを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。

 墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域(ぼいき)を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を切り取った痕跡と考えられています。

 発掘調査がおこなわれておらず埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。

 その他の出土品には、埴製枕(はにせいまくら)、埴質棺(はにひつかん)、石釧(いしくしろ)・勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8cm、短辺29.4cm、厚さ8.0cmの長方形で前面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文(きょしもん)や幾何学文(きかがくもん)などを線刻したものです。

 これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。

   令和3(2021)年3月 天理市教育委員会

 

説明板がどれも比較的最近設置されたのは、調査に時間がかかるものだからでしょうか。

4世紀からの大和古墳群がそのまま破壊されずに残っていること自体もすごいことですね。権力者が変わるとそれまで築いてきたものを破壊し尽くすことが、現代もなお世界中で行われているというのに。

 

里山保存地*

 

段々畑を右手に見ながら山の辺の道を進むと、また地図にはない中山大塚古墳の説明板がありましたが、こちらは1999年には説明板が設置されていたようです。

 

その先の大和神社の鎮守の森を過ぎると、目の前が開けて一段低い場所に棚田の風景が見えてきました。「里山山林機能回復整備事業」の小さな看板があり、棚田の中に山の辺の道を歩いてきた人のためでしょうか、木製のテラスでできた休憩所がありました。

 

青い空と南側の山並みと棚田そしてコスモスと、晩秋の風景を独り占めしてしばらく座りました。

かすかな風の音だけの世界です。

 

万葉まほろば線沿線にはこんな世界が広がっていたのですね。

歩き始めてまだ1時間ほどでしたが、今回の散歩に出かけてみて本当に良かったと満足したのでした。

 

 

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