米のあれこれ 56 「大和豊年米食わず」

吉野川分水歴史展示館のパンフレットに書かれていた「大和豊年米食わず」は、近畿農政局のサイトにある「吉野川紀の川分水の歴史」で目にしていました。

 

大和豊年米食わず

 このことばは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、つまり、大和平野の農業用水の水不足をいいあらわしています。

 もともと少雨地帯であり、大きな河川に恵まれず、水源のほとんどをため池に頼ってきました。

 ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川紀の川)が流れています。しかも、大台ヶ原など最も雨の多い流域は奈良県、そこに降った雨のほとんどが紀州和歌山県)に流れていく。なんとか吉野川の水を大和平野へ引けないものだろうか(分水という)。これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。

(近畿農政局「吉野川紀の川分水の歴史」より)

 

大和平野への分水計画

 この吉野川分水計画は、すでに江戸初期(元禄年間)、高橋佐助によって提案されています。寛政年間(1700年代後半)には角倉玄匡(すみのくらはるまさ)による実地調査。また、幕末に立てられた下渕村の農民の分水計画や辰市祐興らの分水計画を元に、明治政府が現地調査を行なっています。まさに、吉野川分水は江戸から昭和に至る300年の間、浮かんでは消え、消えては浮かんだ大和平野の歴史的悲願だったのです。

(同上)

 

 

*南部は多雨地帯、北部は少雨地帯*

 

展示館にあった「吉野川分水〜豊かな水を求めて〜」(奈良県)のパンフレットには、「大和平野の水と農業の特徴」がまとめられてました。

 

その中で全国平均の降水量が約1,700mmに対し大和平野は1,300mmと少ないのですが、吉野川流域では2,000~4,000mmと多雨地帯だそうです。

大和平野の特徴的な地形と気候

奈良県の気候は内陸性で寒暑の差が大きく、中でも大和平野は瀬戸内海性気候に属し、年間の降雨量は全国平均を大きく下回っていますが、その一方で三重県との県境にある大台ヶ原(おおだいがはら)は全国でも有数の多雨地帯となっています。また、大和平野は周辺の山々が急勾配で迫っているため、山間部に降った雨がすぐに下流へと流れ出てしまいます。

こうした特徴的な地形は、安定した水を必要とする農業に大きな影響を与えていました。

 

雨が少ない大和平野。だからため池がいっぱい

恒常的な水不足を解消するため、多くのため池がつくられ、大和平野には現在も4,100ヵ所が残っています。農家の人たちは、さまざまな工夫によって水不足をしのいできましたが、それでも根本的な解消には至りませんでした。そこで、奈良県では県営事業として4つの大きなため池をつくりましたが、それでも大和平野全域を潤すことはできなかったのです。

 

中学校の修学旅行以来四十数年ぶりに2020年に法隆寺の近くを訪ね、大和川の川合に広がる水田地帯に圧倒されました。奈良県の盆地にまるで扇骨のように集まってくる大和川の支流が太古の昔からこの見事な水田地帯をうみだしたのかと思ったら、荒池でいにしえより水に乏しい土地であったことを知りました。

 

そのために山側に天皇陵の周濠という名のため池があることが見えてきました。

ところが、とてもとてもその水量ではあの奈良盆地の水田を潤す水は足りなかったようです。

 

私が見た奈良盆地の美しい水田の風景は、ここ四半世紀ほどでようやく安定した風景なのかもしれません。

 

 

*そこに住む人の思いを調整する*

 

吉野川から分水嶺を超えて大和川水系の平野へと水を引く発想が江戸時代にはすでにあったことは驚きですが、利根大堰と見沼代用水の歴史に重なりますね。

 

実現までに時間を要したのは、江戸時代の土木技術の限界というよりは調整していくための多くの時間が必要だったのかもしれません。

近畿農政局のサイトに以下のような記事がありました。

 

紀州の思い

「冗談じゃない」というのが紀州の言い分でした。降る雨は奈良県のものかもしれないが、洪水の被害を被るのは紀州だ。

紀の川吉野川)は、歴史に名高い暴れ川でした。一年に二度の割で大洪水が和歌山城下を襲い、幾万という人が亡くなっていました。それに紀の川は河況係数が3,740(最大流量と最小流量の割合)と日本一大きい川でした。降れば大洪水、日照れば大渇水

十万人の農民が鐘を打ち鳴らし庄屋を襲ったという文政6年(1823)の百姓一揆は、干ばつに苦しめられてきた農民の怨嗟が爆発したものです。

渇水に苦しんできたのは大和だけではない。こちらは、水害と渇水の両方に耐えてきたのだ」。

大和の悲願、紀州の苦難。それは永遠に歩み寄ることもできそうにない歴史的矛盾でもあったのです。

 

明治時代に計画が始まったものの、その調整は大変だったようです。

紀の川に注ぐ水はたとえ、その一滴たりとも余人の勝手は許さず」という強い反対から、「農は国家の礎なり」「豊かな紀の川を豊かに使う」へと少しずつ時代が変化し、1950年(昭和25)にようやく正式調印されたことが近畿農政局のサイトにまとめられていました。

その行間には書ききれない当時の葛藤があることでしょう。

 

水田は健在と見える風景にはそれぞれの長く思い歴史がありますね。

 

訪ねるたびに、奈良の水田の風景もそして紀の川の水田の風景も見え方が違ってきました。

 

吉野川分水歴史展示館の分水路が描かれた大きな地図で頭の中の整理をしたあと、いよいよ頭首工へと向かいました。

 

 

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