鳴門といえば渦潮ですが、小学生の頃に見に行った記憶があります。おそらく冬休みに父の運転する車で四国をぐるりとまわった時だと思います。
冷たい海の風の中に船でそばに行き、海底に引き摺り込まれそうな恐怖心を感じた記憶があります。そして当時は四国へ船しか行く方法がないことに、近いのに大変だと感じたような思い出があります。
Wikipediaの大鳴門橋(おおなるとはし)の経緯を読むと、あの渦潮の上に橋をかけるなんて1960年代の小学生にはとても考えつかない計画がすでにだいぶ前から検討されていたものの一旦凍結され、大人の世界ではやきもきしていた時代だったようです。
鳴門海峡に橋を架けることは周辺地域の人々にとって切実な願望であった。1914年(大正3年)に地元出身の政治家によって衆議院に架橋議案が提出されたが、当時はそれを可能とする技術が日本にはなかった。
明石海峡と鳴門海峡に架橋し、淡路島を経由して鉄道で本州と四国を直結する構想は古くから存在しており、1953年(昭和28年)には鉄道敷設法別表に2つの架橋区間が追加されている。その後、1969年(昭和44年)の新全国総合開発計画での記載を経て1973年には大鳴門橋を含む本州四国連絡橋の工事基本計画が運輸大臣により指示され、3ルート同時着工がいったん決まったものの、その直後に起きたオイルショックに伴う需要抑制政策の一環として工事は凍結されることになった。
ところで、鳴門の渦潮を見たはずなのに本当はテレビなどの映像から作られた記憶の錯覚だったのではないかと混乱するのです。
子ども心にあまりに怖かったのでしょうか。鬼籍に入った両親に確認することもできないのですが。
*鳴門のどこを歩くか*
徳島駅からのバスはその大鳴門橋の袂まで行く便もあるようですが、今回は気になった撫養川の流れを見て、そばにある岡崎城跡のあたりを歩いてみようと思いました。
小鳴門海峡と旧吉野川河口を結んでいるように見える撫養川は、どちらへどう流れているのかをこの目で見てみたいという、ニッチな散歩です。
本当は、足がすくむような感覚が苦手というヘタレかもしれません。
おいしいお昼ご飯を食べたら元気が出てきました。
食堂を出るとすぐにコンクリートの堤防が見え、すぐ向こうが小高い妙見山公園でそこに岡崎城跡があるようです。
堤防のそばまで行くと、コンクリートに見えたのは切石を積んでいるようにも見えます。あるいは石を模したコンクリートでしょうか。30年ほど前はコンクリートを見ると「無粋な」と思っていたのですが、年月を経て最近では本当の石かとみまごう風体のものを見かけますね。
撫養川の水面が見えない堤防の高さでしたが、橋の上に立つと想像していなかった風景でした。堤防の内側には川のそばに木でできた欄干と床の遊歩道がずっと続いていました。
川底には海藻らしき緑も見え、澄んだ水がゆったりと小鳴門海峡の方へと流れていました。
北側は小高い山に挟まれていて、海が近いので漁船の船溜りになっています。私の上をトンビが旋回し始めました。
橋を渡ると道沿いには、昔からの商家の佇まいの家がところどころ残っています。
「傳 撫養街道 遍路道 関所跡」という石碑が建っていました。
つきあたりに妙見山への妙見神社への石段があり、そばに満開の桜が咲いています。その頂上に岡崎城の天守閣が見えました。
見上げるような石段に、岡崎城跡を訪ねるのは諦めました。
船溜りのそばを通って、鳴門駅へと向かいました。
地図でその流れが気になって訪ねてみた撫養川の周辺でしたが、静かで落ち着いた街でした。
ところで1960年代に船で渦潮を見に行った時に、このあたりを通ったのでしょうか。当時はどんな街の雰囲気だったのでしょう。
「落ち着いた街」まとめはこちら。